【臨床と宗教】 第13回 無限の闇を前にして
スピリチュアルケアとパストラルケア
孫:
深谷先生は臨床パストラル教育研究センターでスピリチュアルケア師の養成に携わられているとのことですが,パストラルケアという言葉は今回初めて知りました.先生の著者の中にも書いてありましたが,パストラルケア,パストラルカウンセリングとはどういうものか改めて教えてもらってもよろしいでしょうか.
深谷:
スピリチュアルケアというのは,もともと牧師や神父が行っていて信者さんの世話もするわけです.信者さんが信仰上の悩みを持つ.私はこんなことをやってしまいましたが,神様は許してくれるのでしょうか.こういう考え方でいいのでしょうか.あるいは家でこんなことがあって,今子どものことで悩んでいますといったようにいろいろあります.信仰というベースを持ちながら,カウンセリングによって信者さんの悩みを聞いて答えていくというのがパストラルケアです.
パストラルカウンセリング,パストラルケアは神学校でも教えています.だから信仰をベースにして一緒に考えていけばいいわけです.しかし,たとえばアメリカでは宗教的なダイバーシティ,多様性があります.病院に行ったらイスラム教の人も仏教の人もいろいろな宗教的背景の人がワチャワチャ来ます.そうするとたとえば牧師や神父が勤めたとしても,キリスト教をベースにしたパストラルケアだけではやりきれません.その限界が広がったのがスピリチュアルケアと考えたほうがいいと思います.
孫:
ありがとうございます.チャプレンの方については基本的にはキリスト教系のバックグラウンドを持った方がされているということなのでしょうか.
深谷:
浄土真宗の尼僧の資格を持っている方もキリスト教系の病院でやっている例がありますね.チャプレンという肩書かはわかりませんが公立病院では仏教系の方がカウンセラーとして活動されています.もちろん仏教系のビハーラみたいなところもあります.通常はキリスト教系の病院だったらキリスト教系の方,牧師さん,神父さん,スピリチュアルケアワーカーでクリスチャンという人たちがいると思います.
スピリチュアルケアの専門職
孫:
今度はスピリチュアルケアの臨床の現場の話をお聞きします.チャプレンの方はスピリチュアルペインや実存的な苦しみに対してケアをするのが基本の役割かと思います.先生が調査されたり,ご自身で臨床に接したりしたとき,現在のスピリチュアルケアの課題と感じる点はどういった点でしょうか.
深谷:
1つは,日本の場合は宗教に対する拒否感がとても強い点です.チャプレンが訪室するとき,訪室自体を嫌だという人もいます.宗教ということだけでダメということですね.あと看護職自体がチャプレンをうさんくさがって近づけないというのが結構あります.医療者間の連携がうまく取れているとチャプレンもスッと入っていけて役割を果たせますが,そこが難しいですね.要するにキリスト教系病院でスピリチュアルケアをチャプレンが担っていくにしても,看護師さんが理解して,ある程度話を受け止めて,ここはチャプレンに任せるところだなということがわかっていてくださらないと,にっちもさっちもいきません.
あとは緩和ケア科の場合,病棟自体は緩和ケアの病棟であっていわゆるホスピスではありません.苦しみが強くて早いポイントで鎮静をかけてしまった場合は患者さん自体が昏々としてしまい,本当は聞きたいこと,話したいこと,つらいことがあると思いますが,スピリチュアルケアをやっている時間がありません.そのためチャプレンは腫瘍内科など,ほかの科のほうが活躍できるといいます.
孫:
僕自身はスピリチュアルペインを感じていらっしゃる患者さんが結構現場で多くいると感じています.死んだらどうなるのですかという問いをまともにされたことはほとんどないですが,患者さんの宗教観に触れるような場面はあります.僕たちもスピリチュアルケアについては学ぶものの,実践としての経験値がものすごく少なくて,そういう時にどういうふうに受け応えをしていいかがよくわからないという不安があります.
今,先生がおっしゃられた,ここからはチャプレンに任せるところだといった判断の部分をわれわれも学んだほうがいいのでしょうね.実際はチャプレンがいない病院のほうがむしろ多いと思いますので,そういった場合にどう考えていくか,どう寄り添うかを医療職が学ぶことも大事なのかなと思っているのですが,そのあたりはどう思いますか.
深谷:
チャプレンにインタビューを行った時に自分が書いた論文を今回の対談の前に読み直していました 1) .スピリチュアルペインを抱えた方は基本的に極限状態で一定の答えを求めるというところがあります.私たちのような専門職が答えを出すのはいかがなものかという意見もあるかとは思います.しかし,患者さんがそれを全部受け入れるかどうかは別として,牧師さん,お坊さん,神父さんが一定の答えを与えることでそれで安心するということもあります.お医者さんがこのやり方でいいのだから,これで任せなさいというのは一種のパターナリズムで,現代の考え方では敬遠されるところがありますが,これは逆に専門職の権威を使っていくという部分です.
たとえば「死んだらご先祖さまに会えますよ」でもいいし,「神様に会えて天国に行けますよ」でもいいけれども,チャプレンやお坊さんのような専門職がこういうふうに言ってくれたから安心できるという面もあります.「死んだらどうなるのでしょう,不安だわ」,「地獄に行くのではないかしら」,「こんな悪いことをしてしまって許されるとは思わない」といった罪障感に基づくスピリチュアルペインを吐かれたとき,もちろんお医者さん,看護師さんが言ってもいいわけですが,それだとある意味クレジットにならないわけです.病気のことだとクレジットになるけれども.頭を丸めた人が「大丈夫です」と言ってくれたからこそ安心できるという部分もあります,権威の利用ですね.
とくに人生の中で何かやっちゃった,すごく傷つけてしまった,私は地獄に行くわということをおっしゃるお年寄りがいらっしゃるけれども,そこを聞いて,受け止めて,大丈夫ですよと言ってくれることは日本人には必要なことかなと思っています.
孫:
ご高齢の方がかなり増えてきて,病院で亡くなる方も多く,医療職も死に接する機会が増えてきています.そのなかでスピリチュアルケア,スピリチュアルペインの問題に関心が高まっているなと思います.専門職がいれば,その存在をもってアプローチする.先生の著書の中でいうと「ミニストリー・オブ・プレゼンス」という言葉になりますが,すごく勉強になりました.
深谷:
ミニストリー・オブ・プレゼンスというのは,そこに共に存在することによる臨床牧会,支えや慰めを表す言葉ですね.
佇んでいく力
孫:
最近僕らが読む文献や教育においてもDoingとBeingの違いが強調されています.Beingのほうがそういったスピリチュアルケアの場では大事になるということ,「どうするか」ということよりも「どうあるか」みたいな形で傾聴して寄り添うことが大事と言われます.死の問題となると,基本的に誰も死を経験したことがないわけです.私たち自身も死に対する恐れがあり,死に対して言及する怖さとかがあるのかなといつも思います.それもまた一つの課題なのでしょうね.
深谷:
死に対する恐れですね.私も自分の父親を自分の手の中で看取ったことがあり,死に対する恐れを感じた経験の1つとしてあります.
これまで携わった方でいうと,井田病院に入院していた外国の言語学の先生で,前の病院でお医者さんとの対立がひどくて移ってこられた方がいました.女性でしたがかなりものをはっきり言われる方でした.その人の看取りに,毎日のように通った経験があります.亡くなる前日まで話を聞き続けて,リクエストに応じて祈り続けました.毎日のように2,3週間通ったと思いますが,牧師であっても
ご飯が食べられなくなるぐらい重たいです.逃げたい,逃げだせたら,どんなにいいだろうと思いました.
医療者の方は仕事だからある程度耐える力はつけられているかもしれませんが,一人称の死として考えた時にはかなり重たいです.孫先生の言われたように一人称の死に耐える力をつけていくのはすごく大変な課題かなと私も思います.牧師であってもしんどいことはしんどい.だからお医者さんでもしんどいと思うし,看護師さんもしんどいと思う.もしも逃げないでいられるとするならば,無限の闇の前に立っている,あるいは飲み込んでいく大河の前に立っているような感じだけれども,その前に無力である自分を認めて,無力な患者さんと一緒に佇んでいく力というのは信仰の力なのかもしれないですね.
そういう時,無宗教の人と出会っても祈らざるを得ないという話を淀川キリスト教病院の藤井理恵先生はしています.私が思うに日本では一番ベテランで,力量のあるチャプレンだと思いますが,あの人も無力を感じながら死の前に立っている,患者と一緒に限界の前に佇んでいる.ただ佇んでいる力を関係性の中で共有していくという話をしています.そのなかで祈りが自然に生まれてくる.そのような姿勢がキリスト教チャプレンの在り方だと思います.
(次回に続く)
参考文献
1)深谷美枝,柴田 実:スピリチュアルケアと援助者の宗教性についての実証的研究.明治学院大学社会学部付属研究所研究所年報,42:43-57,2012.
※本内容は「治療」2022年3月号に掲載されたものをnote用に編集したものです
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