怪我をしたら神様に出会った①

2021年2月

私が下り坂で自転車から転げ落ちた時から4年が立った。

最初は、そこまでひどいことにはなると思っていなくて、松葉づえをつきながらも翌日高校の部活の仲間に笑顔で「大丈夫大丈夫♪」と言っていたのを覚えている。

だが実際は、その後松葉づえが取れても痛みがなくならず「運動しないでください」と言われ、私の人生は大きく変わった。

たかが運動制限と思う人もいるかもしれないが、動けないというのはとんでもなく辛いことだ。運動が苦手な人でも体が動かせないのは辛いはずなのに、私は大学に入ったらバレエサークルに入ろうとしていた。

大学に入ったらバレエのダンスサークルに入って、中学後半に辞めたバレエをついに再開したいと思っていた。入学前から、新たな自分の人生が始まることにワクワクしていた。
それなのに、ましてや大学の入学届を出しに行く途中で、こんな事故に会うなんて。まだ単独事故だから人を恨まずに済んだのはいいかもしれない。
ジブリのシーンを思い浮かべながら下り坂を一切の恐怖を捨てて滑走してしまった自分の浅はかさと愚かさを恨む。
これを機に、自分の不注意さとメディアに影響を受けすぎる性格を直そうと決めた。

とにかく、私の大学4年間の華々しいダンス生活は消え結局在学中に思いっきりダンスをすることは出来なかった。

私は小さい頃から走り回ることが好きで、保育園と小学校の一番楽しかった思い出と言えば、友達と園庭や校庭で走り回ったことだ。

高校生になっても定期的にジョギングをすることが大切なリフレッシュ方法になっていたし、運動できないというのは日々不要なものを排出する出口が塞がれたのと同じことだった。全ての汗腺が塞がれたような鬱蒼感。

動くことの中でも特に好きな動作はジャンプだった。5歳から習ってるバレエでは先生に「気持ち良い!!」と言われるジャンプをしていたし(飛んでる本人が一番気持ち良い)、小学生のころには小さな地区大会だが高跳びで135cmを跳んで、2回ほど優勝したことがある。
学校の廊下ではスキップしながら移動するのが好きで、先生に「やけに機嫌良いなぁ」とよく言われたものだ。機嫌がいいというか素でジャンプが好きだった。

だから、ある意味ジャンプが自分のアイデンティティーでもあった。みんな自分の好きなものが一つのアイデンティティーに感じるように、私もジャンプが自分らしさを感じるものの一つだったのだ。

今考えれば、そんなに大したアイデンティティーでもないかもしれないが、何も持っていない若者からしたら自分を自分たらしめる大きな宝だった。

それを大学に入るタイミングで、親から離れ、友達から離れ、一人でやっていこうというタイミングで失ったのだから、本当に何もない自分になってしまった。

それから東京に出ていくらか経っても、膝のことを考えると、涙が大量にあふれ出て止まらなかった。

風を切って走り爽快さを感じることも、舞台をジャンプしながら駆け巡り生きる喜びを感じる事もできない。日常でも地に足をピタッとくっつけてしか生きられないことを考えると、本当に翼を失ったようだった。


そんなこんなで、大学では新たな自分の喜び、アイデンティティー、存在価値を見つけるために必死になった。

これまで少しでも自分が得意だったこと、活躍できる可能性のあるもの、好きな事をしらみつぶしに深堀ってみた。

海外志向だったので、CAになるのもいいかなと思って、接客業のバイトを試しにやってみたり

書く仕事が向いてるかもと思ってWebライターのアシスタントをやってみたり

映画を毎日1本見て、感想を書き、何か仕事に繋がらないか考えたり

自分でWebサイトを立ち上げて、大学生の視点で東京の文化を発信してみたり

大好きだった英語を極めたらいいかもと思い、同じく大好きなハリーポッターのセリフを英語で全部覚えようしてみたり

ウィングスーツで空を飛ぶことが将来の夢だったから、思い切ってスカイダイビングの資格を取ってみようとしたり


他にも色々やってみたが、とにかく、何をするにも人生を通して自分の価値を発揮できる場所を探していた。

「何者かになりたい」というやつだ。
でもなんでも良いと言うわけではなく、自分がこの体に生まれ、この感性を持ち、この人生を生きてきたからこそなれるという納得できる道を探していた。
これは今考えたらかなり難しい理想だと思う。でもこの高い理想をなせると信じて止まなかった。真実に納得できる事を求め続けたし、その火が消えなかった事に今はものすごく感謝している。

でも、大学1年でやった事に関しては結局どれもやりがいを見出せず、辛くてもやっていこう!と本気で決心するには至らなかった。むしろ、以前より多くのものを失った。なぜなら、今まで現実逃避として楽しんでいた英語やハリーポッター、映画が、趣味ではなく仕事としてやっていけるか試したことで、もはや気軽に楽しめるものではなくなってしまった。小さいころからの夢だった空を飛ぶことも、室内スカイダイビングだったのもあって、顔に直撃する風圧ばかリが凄くて、夢見たような感じではなかった。
こうして、大学一年生の時必死に自分の将来の道を探したが、アイデンティティーのみならずその他の趣味や夢までも失ってしまったのである。

この時は、食事を摂っても味が脳に届かない感じがして美味しくもないし、終いには食べる意味が分からなくなったりもした。朝、目が覚めても布団から出る事ができないくらい精神的に肉体的に渇き切っていた。生きてはいるけど死んでいた。

今、そんな苦しみから抜け出して分かったのは、この時までの以前の私は、人に勝ち、自分に能力があることを周りに示す事でアイデンティティーを保っていた。
だから、唯一1位になれるものだったジャンプ力を失い、高校までとは違って学業の成績や運動、部活での競い合いが無くなったことで、自分が人より必ず勝つことができる何かを見つけたくて必死だったのだ。

でも地元の小さい地域で過ごしてきた小中高とは違い、大都会東京に出てきて、いくらでも学外でも活動できる大学では、「勝たなければいけない他人」の対象が物凄く広くなった。少し大袈裟に言えば、ざっくりとした世の中、つまり日本全体の人々を見て、「自分が一位にならなきゃいけない」と必死になっていた。だから、「これをやってみよう」と思っても、自分より凄い人を見るとすぐに「あぁ、この道はもうこんなに凄い人がいるから自分はダメだ。」と思った。こんな考えでは絶対に道が見つかるはずがない笑笑
今では分かり切った事だけど、自信過剰だった若者は「私は何かすごい物を持っているはず」と信じ切っていた。そして一番間違っていた考えは「他人がどのレベルか?それに勝てる程自分は出来るか?」というように、自分を見つめるのではなく実は他人ばかりを見ていた事である。

これまで学校の序列の世界で生きてきたし、そこで勝つのが心地好く過ごしやすいと思い適応してきた。でも世界が社会全体に広がった事で勝てる世界がすぐには見つからず、自分の存在意義、そして生きる意味を見失ったのだ。

でもこの事は、自分が日本の学校に適応して生きてきた12年間で持つようになった間違った考え、自分を苦しくさせていた考えに気づき、そこから抜け出る機会となった。


大学2年になるくらいには、一度この鬱病に差し掛かっている流れを断ち切るために、やっていた全てのことを辞めた。入っていたサークルや学生団体、バイト、趣味、学外の勉強、立ち上げたWebサイトも全てを断ち切った。

普通頑張り続けるのは良い事だが、上手くいかないならば何か頑張る方向性、つまりは考え方が間違っている可能性もある。この時はそれを分からなかったが、間違った考えのまま突っ走るのを止めたのが良かった。時には感覚に従うのが大事だ。

これが功を奏して、大学2年からは、人生の幸せグラフが人生の最低ラインを横ばいに這っていたのが、少しずつプラマイゼロ地点に戻ってき始めた。

そして、私の人生幸せグラフがプラスになり始めるきっかけが夏休みにやってきた。

気晴らしによく韓国のTV番組を見ていたのだが、実際の韓国という国の雰囲気を肌で感じたい!と思い立ち、1ヶ月の韓国短期留学に申し込んだ。何か人生の流れが変われば良いなという思いもあった。

学校の留学プログラムで、事前に数回の準備集まりがあったのだが、自分が韓国で何を学んできたいかを1人ずつ発表する機会があった。

30人くらいの男女が自分の韓国での研究テーマを前に出て口頭で短く発表していく。その時、「ゆか」という同じ学年の子がやけに印象に残った。
他の人とは何か違う感覚を受けた。はっきりとした口調と目線、周りの緊張感に飲まれず自然体で出るジェスチャー。そのはっきりとした雰囲気が聡明さを感じさせた。
すぐにこの子と友達になりたいと思った。

私はこの子と仲良くなりたい!と思うと98%は機会に恵まれないのだが、ゆかとは運命的にもその後、同じグループになり、「この流れ...珍しいじゃん...?」と不思議に思った。話してみると、とても場を笑いに変えるのが上手い人で、雰囲気も良い上に面白いのか!!と、好感度はさらに上がった。

それからは、何故かあちらからも話しかけてくる事があったりして、なんとなく帰りも校門までだが一緒に帰ったり、話す機会も増えて、韓国に行くまでにとても仲良くなった。

もちろん韓国でも2人で様々な場所に行き、チマチョゴリを着て韓国の民俗村を周ったり、辛すぎる大皿のトッポギを食べ、荒い運転のバスに乗り全然違う場所に行ってしまったり、、、様々な新しいことを経験した。1ヶ月、同じ寮で衣食住を共にし、4年間一緒にいたくらいに物凄い濃い期間だった。

そしてこの時は知らなかったが、彼女はクリスチャンだった。思い返せば留学のテーマも「韓国のキリスト教文化の研究」だった。宗教や哲学が「正当な」学問として身近にある大学では、日本の日常生活で感じるほど宗教の話題に偏見を感じないものだ。

そんなこんなで、私が神様に出会うきっかけとなった、大きく運命的な出会いだった。


→②ゆかとの出会いから神様との出会いに続く






サポート代は、神様が喜ばれることに使おうと思います。 神様が愛する人々のために、あるいは教会のために、あるいは日曜日に神様にあげる花代にしようと思います。