『saṃsāra(サンサーラ)』13

13       座
 
縦に一から八。黒い人型の影がゆらゆら揺らめいている。
横に一から八。透明の結晶の人型がゆらゆら揺らめいている。
その全員が習字をしている。座っている体の前には硯の中に墨、その上にちょこんと筆、半紙は黒い下敷きの上に。部屋の中は墨と畳のにおいで充満している。
私の夢についての習字。
私の未来についての習字。
私の希望についての習字。
いつの間にか私たちもそれに倣って座っている。私も犬も娘も。そして私たちの前にも同じように硯、筆、墨、半紙。
犬は面白がって、(彼女が正座なのは不思議な絵面だった)絵を描いている。素敵な水墨画だった。土筆のような絵。
「うまい具合に土筆の絵が描けたね」私が言うと
「旦那様。私は犬ですけど、これは竜です。見たことも嗅いだこともないのでこうなりましたが、これはどうしたって竜なんです」私はあっけにとられるが、それがこの犬の感性なのだろうからあまり余計なことを言うもんじゃないと。
「いやいや、うまいものだね」と
「旦那様。私は犬ですから良くは分かりませんが、これが私の夢やら未来やら、希望でございます。ところで旦那様はまだ描かれないのですか?」コクリと一つうなづいて、半紙に目を落とす。何も浮かんで来やしない。
集中が切れるなり、ふと犬の向こうの娘の半紙に目がいった。
娘は『天』と一文字。力強い。背中に背負った字を選んだのかと感心してしまう。私はまごまご迷っているといつの間にか目の前に現れた黒い大きな男の影が、『夢についての習字』でも『私の未来についての習字』でも『私の希望についての習字』でも好きなものを書いたら良いんですよと。そっと言ってくる。頭の中に直接。そこに言葉はない。音はない。静寂と言うのはこういうモノなのだろう。
私は迷う。夢、未来、希望。はて、どうしたものか。
娘もそう教えてもらったので、『天』になったのであれば、なかなかのものだなと思ったし。その向こうにいる鳥は(谷の落下時に声をかけてくれた鳥だが)『魚卵』って書いていた。
私は迷う。夢、未来、希望。はて、どうしたものか。
手を止め、足を止め、息を殺して考えている。口から吐く息に、自分の思いが乗ってしまわぬように。感情が出て行ってしまわぬように。息を殺してじっと半紙を見つめている。
思い描く。夢、未来、希望。はて、どうしたものか。集中を切らさぬように、集中を長続きさせるように。じっと半紙を見つめる。
しかし、なに一つだって思い出て来やしない。声を殺してじっと半紙を見つめている。
その姿に、周りをまわっていた黒い大きな男の影が
私の半紙をつかむなり。
「素晴らしい」高らかに、皆に見せつけるように、半紙を持ち上げる。
「何も書かれない。これは何でも書けるという証。これこそが、夢であり未来であり希望に違いない」思ってもいないことを、そうめったやたらに褒められてしまうと私もすごく照れくさい。
 
そこへ、響きだす六回の鐘の音
ドーンとかボーンと
 
そしてみな眠っていく。黒い人型の影もゆらゆらが止んで丸いマリの様になっている。
透明の結晶の人型はころりと転がったまま動かない。黒い影の大きな男の影はその身をすっかり細くしている。今では爪楊枝の様。
 
もうあの声は聞こえても来ない。誰もが鐘のことすら忘れてしまっているかのような。
何もかもが終わるのではないかと、泣き崩れていくかのような鐘の音。
誰もが鐘にせかされているかのような。
誰もが心配だけをしているような。
誰もが消えていく鐘の音を悲しんでいるような。
 
 
 
 

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