『saṃsāra(サンサーラ)』6


6       亀
 
ガラスの橋の端が突然現れた。そこから先はまさに何もなく下る階段もない。
あの蝶達がその先を作っていく気配はない。あの蝶たちが現れる気配はない。
犬を抱えたまま手をこまねいていると、私の腕の中の寝ていたはずの犬がうっすら目を開け始める。
「旦那様。良くわからないのですけれど。ついたのですか?」と聞いてくる。ついたも何も、どこに向かっているかもわからないものだから、ここが終着点なのかもわかりはしない。
「あぁよかった。目が覚めたか。今な、端っこについたのだけれど。この先をどうしたらよいものか思案していたところさ。どうにもあの蝶もやってくる気配もないし、、、」ぼんやりした様子で見ていた犬は、ぽんと私の腕から飛び降りると体を振るわせる。前足を二つ前に放り出すとおしりを上げたまま。うーーんと。伸びをする。
それから橋の端を見て。
「旦那様。どうしましょう」と聞いてきた。聞きたいのはこちらの方だと思う。それでも聞いてみようかと思ったが、どうせ「私は犬なので」とかなんとか、言うのだろうと思うと言葉が出てこなかった。
まごまごしている私をよそに、犬は橋の端から下をのぞき込む。そして、ぽつりと。
「旦那様。私は犬ですから良くは分かりませんが。あれですか?」と、聞いてくる。
よくわからない面持ちで私も橋の端の下をのぞき込む。カメが一匹ゆらゆら泳いでいる。
「なぁ、お前?あれかい?」
「旦那様。そうなんでしょうね」
「結構な高さがあるよ」そう思ったとたんにカメは、さらに下の方へと遠ざかっていく。
「旦那様。そう思えばそうなりますので、そう思わないでください。これじゃあ私だって怖くて仕方がない」頭の中で考えがまとまらない。私の不安を感じ取ってなのか、橋からはまた数十頭の蝶が飛び立っていく。きらきらと見事な様子で。橋は透けていく。慌てる私は頭の中でこう思う。カメが近づいてくるのを思えばいいのかしら。すると、あっという間にカメは私たちの足元までやってくる。
思っていたものよりずっと大きい。人が五人乗っても安心できるほど。もう少しで足が届きそうなところまでやってきたとき、犬はポーンとカメの背中に飛び乗った。カメはその勢いで少し揺れる。けれどそんなものはたいした事ではないと、カメはゆらゆらと空中を漂っている。
私も意を決して、亀の背を目掛け踏み出した。ポーンと一気に飛び出した。
そんな私をカメはしっかり私を受け止める。そしてカメは背中に乗る私たちを、首を伸ばして確認すると顔をほころばせる。
「んんん。お客さんだんね。行きたいのかい?良いよう。んんんでわ、しっかりつかまっていてくださいね。行先はお任せでいいのですよね」そんな間の伸びたカメの問いかけに
「多分。むしろ私たちは、どこへ行けばいいのだろう?下の方に行けば良いのだと思うのだが」そう答えるしか無いようで。
「旦那様。私は犬ですから良くは分かりませんが。まぁ、それで大丈夫だと思いますよ。」
カメはゆっくりゆらゆら、下へ下へと降りていく。
蝶で出来たガラスの橋は雲の中に消えていく。反対に雲の中から出てきた私たちを、朝焼けが照らしていく。地上の様子が見えてくる。私たちが渡っていたガラスの橋の下には太く大きな川が流れていた。視界の奥の方には山々が。
山々の頭には雪が少し積もっている。
カメはぶるると身震いをする。私たちはその調子に、左へ右へと転がってしまうのだが、カメの背中はとても広くて、落ちることはなかった。
犬もカメにつられて身震いをする。
何なら私も。
よくよく見てみると私の外套も上着もいつの間にかなくなっていて、今では肌着だけになっている。これは寒いはずだ。
「なぁお前私の外套やら上着を知らないかい」
「旦那様。私は犬ですが、旦那様の衣類はあの月の明かりに溶けていくのを見ましたよ」
 
 
カメは移動している間中、とても興味深い話を聞かせてくれた。
それは、この世界の宇宙の成り立ちだったり、別の次元に存在した深い海の底にある星のかけらについて。
山の中には大体、大きな猫がいてその猫がたまにかんしゃくを起こすと、猫は外に飛び出しては山と喧嘩が始まったりもするものなのだ、なんて言うのも楽しそうに話してくれた。その中に、私の上着やら外套の行方について含まれていなかったのは残念だったけれど。
犬も時折相槌の様に「旦那様。あたしは犬なので、それについては全く知りません」なんて言いながら、それらを楽しそうに聞いている。
緑の甲羅は本当に広くて私たちは快適に空の旅を楽しんだ。空の旅というか落下だけれど、心地よい落下だった。
そして、ほどなくして地上に到達する。
地上につくなりカメは、その大きな二つの手で、たった今降りたその場所を掘り返し始める。
「んんん、いつもね、お客さんが来るとね。こうやって地上まで降ろしてね。地下まで案内していくんんんです。んまぁ、これがあたしの使命って言うんですかね。んんん、あたしはねぇ、ずっとこうしているんですよ」
土を書き出していく手を休めることなくカメは説明してくれる。それはどことなく寂しそうにそう言っている様でもあった。
「地下には何があるんだい」
「んんん、それは行ってのお楽しみさ。と言うかねぇあたしは、ただ人をそこへ連れていくだけ。例えばそこに何があるかを言ったところで、感じ方もとらえ方も人それぞれだし。んんん、だいたいにして私が言った通りのものなど、どこにもないかもしれないしねぇ」
カメは器用に掘った土を自分の後ろへと押しやっていく。私たちに土だか泥は、かかることはなく、ただ後ろへ後ろへ押しやっていく。
「うまいもんだね」
「んんん、あたしはこれが得意なんでねぇ、だからこれをやらされているのかなぁ。んんん、なんでコレを始めたのかなぁ。もうどうしてだったのかも、覚えていませんよぅ」
犬はつまらなさそうに、横の土を両前足で突いている。
 
そしてまたも突然に、あの鐘の音があたりへと響き渡る。
今度は三回、鐘が鳴る。ドーンとかボーンと。
暗い穴の中、地響きのような音、振動があたりを揺らす。
穴の側面や天井の土が降ってくる。ばらばらばらばら。
犬の鼻はうっすら土をかぶっている。
 
カメは少し慌てて、私に問いかける。
「んんん?鐘は三度ついていたよね?」
「三回でしたね」頭の土を払いながら私は言う。私の答えにカメは困ったような顔をする。そしてすぐに作業に取り掛かる。今までより速い勢いで。
「なぁ、この鐘は何なんだい」犬に聞いてみる。犬は困ったような顔を向ける。土をかぶったままの姿で。
「んんん。まぁ、旦那さん。早くぅ行きなさいってことですよぉ」犬からの答えの帰ってこない様子を見かねて、カメが答えてくれる。犬はまた眠そうにしている。それを見やってカメは。
「んんん。あたしも少し眠いな」それでもカメの手は、せわしなく動かしている。眠たそうには見えないが。
今回の鐘は音が鳴り響く中、人の声がその音の中に乗っかっている。それも一緒に、土の中に響いてくる。
その人の声が何を意味しているものなのか、私には皆目見当がつかない。
言葉のような音なのだが、私が理解できる言語ではない。それともこの言葉の意味を、すべて忘れてしまっているだけなのか。何にせよ人の声の音が響いているのは確かなのだ。
「んんん、旦那さん。ここに来るのに結構時間がかかったのだろうねぇ。んんん、もう三回目の鐘だってんだから、なそうなんだろうがぁねぇ」カメはそう問いかけてくるのだが、時間がかかったかといわれても、ここまでの道中への基準がわからないので、何とも言葉に詰まる。
「んんん、まぁ、なんだ。あきらめないでいればきっと大丈夫だからぁ、何にしても先を急いだほうがいい。んんん、あたしも頑張るからぁもう少しだけ辛抱しておくれなぁ」ふぁぁと、あくびを噛み殺してカメは私を励ましてくれるのだが、よくわからないことで励まされるのも私にはくすぐったい感じだった。
それでも私たちは、カメのトンネルを見守るしかなかったんだ。土まみれの格好で。

ひとまずストックがなくなりましたので これにて少しお休みいたします。 また書き貯まったら帰ってきます。 ぜひ他の物語も読んでもらえると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 わんわん