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トラウマを抱えて育った人に、取材をするとき考えてほしいこと


まえのnoteで、こんなことを書いてきましたが…。


さて、そんな私にもマスメディアから取材をしていただく機会はやってきました。

私以外にもキリスト教2世として取材に答えられた方はいらっしゃると思います。結果、採用されなかったことは率直に悔しく、残念に思います。

キリスト教2世でも、私以上に人生への深刻な影響をこうむった方々はいらっしゃるので、その方たちの経験だけでも電波に乗って欲しかったです。

もちろん関心を向けてくれた方がいたことは率直に嬉しかったですし、取材してくださった記者の方も理解しようとはしてくださったと思います。
繋いでくださった当事者の方にも、記者の方にも、そこは感謝しています。

ただ…マスコミの取材対象は、トラウマを抱えた人たちであることも多いことは事実です。取材する側にその視点と知識がもう少しあれば…と思うところはありました。

今後、取材を受ける当事者が取材や放送で更なる傷をを負わないために、取材者の視点の限界で、当事者の経験したことが歪められて(そのつもりはなくても)伝えられることがないように、私の経験から感じたことを書き残すことにしました。

(マスコミ関係者が、目に止めてくれるとは期待してないのですが、書き残さなければそこで終わりなのでね…)


はじめに

私が取材をしていただいたときや、またその後放映された番組をみたときに感じたことがありました。
それは「取材者にトラウマ症状や、サバイバーの特徴や苦しみへの理解が足りないことからくる弊害」です。

最近ふと、
「でもドキュメンタリーって、そもそも援助が必要だったり、トラウマを負ったりした人を取材することが多いはずだよね」
と思いたち、今後何か…と考え、書いてみることにしました。

私は取材された記者の方や、番組制作に携わった方々を非難したいわけではありません。

実際、取材を受けながら、
「おお、そこを流さず突っ込んでくださるんだ」
とか、
「沢山の他宗教2世を取材してこられた蓄積の上に、共通性を見つけてくださってるな」
と感じたこともたくさんあったからです。


むしろ「あの記者の方であっても、トラウマ等の知識が足りないために、こうしたことが起こるんだ…」というスタンスで書いていくつもりです。そんな感じで、よかったらお付き合いください。


1.トラウマについての研鑽を積んでいる心理士に同席させるべきなのではないか?

これは、ある当事者が話していて、私もなるほどと思いました。
本来ならその人のトラウマについて話をするって、そういうことなんですよね。

実際取材を受けることで、調子を崩したり、トラウマの蓋が開いて希死念慮が出ることもあると思います。
(私はたまたま大丈夫でした…。)

専門家の目で、当事者を観察してもらえたり、必要なときはストップをかけたほうが安全だと思うんですよね…。当事者は、放送がかかっていれば無理をするものだと思うからです。

それ以外にも、心理士が同行して一緒に話を聞くことで、取材者側のトラウマの知識がないことで「誤解」してしまうことも防げると思います。


2.取材対象の傷つきの程度を、決めつけないで欲しい

取材されていて気になったのは、取材対象の傷つきの深さを「印象」で決めていることでした。

個人的には、宗教2世問題は虐待と重なるところが大きい(実際「宗教虐待」という言葉が出てきたのは、ありがたかったです)と思っています。

また私もそうでしたが、取材側に対しては、
「自分の発言の信用度を下げたくない」
と冷静に話そうとすることもあります。

それに被害者は傷ついていても、自覚できないことも多いです。
ひどい場合は「解離症状」を起こしていて、「傷ついた自分」が「自分全体」の中でも切り離されていることだってある…。

だから見ている側の「印象」で傷つきを判断するのは、危険なことなんですよね。

そして、こうして書きながら思うことがあります。誰が悪いという話ではなく、被害や加害の深刻さを判断するって難しいことなんだなと…。

加害の程度をはかる基準なんてないし、被害者の傷つきや苦しみ、人生で被ってしまったものを測ることも難しい…。

うーん、と思う自分もいます。
ただ心理士がその場にいれば、その助けになるのかなとも思います。もちろん人の苦しみは、「心の問題」に限らないけれど。


3.メディア側が「望ましい当事者像」を設定することの害について

もう一つ、私が取材を受けながら感じたことがありました。
取材する側に「望ましい宗教2世当事者像」があって、自分がそれに沿っているかを常に測られている視線です。

具体的には、この2つです。
・宗教の意義をある程度認めていて、宗教を全否定していないこと。
・信仰を持っている側や、宗教1世である親への配慮が感じられること。

宗教2世で、宗教を全否定したり、親への配慮をする余裕などなかったりしても、それは当然のことです。そういう人がいたとして、何故そこまで傷を負ったかが本当は問われて欲しかったです。

ただ番組の事情としては、
「宗教叩きになってはいけない」
という塩梅が必要だったのだろうと思います。


◆「望ましい当事者像」が、リアルな当事者を追い詰めてはいけないと思う。

ただね…。
こうした「望ましい宗教2世当事者像」が番組に反映されてしまうと、当事者を追い詰めることもあるのではないか。私は出来上がった番組を見て、心配になりました。

宗教2世当事者が、現役信者などと対話することが「新たな動き」であるかのように描かれたことは、正直もやもやしました。
(取材に答えていらっしゃった、当事者2世の方々には尊敬と感謝をかんじています)

なぜ苦しんだ側が、苦しむ原因になった組織の側を理解しようとしないといけないんでしょうね…。
今苦しんでいる宗教2世は、親や組織に理解されたり、理解しようとしてもらったことなんて、ない人が多いだろうにと…。

そしてそれらは、私が取材を受けていたときに感じた視線とつながっているようにも思えました。



◆弱い立場の被害者に厳しく、強い立場の加害者には甘い社会…

そして、この辺りは私もうまくまとまっていないんですが…。

私が感じる「大人になった虐待被害者への社会の視線」とも通じるものがあると思うんです。

・親と話し合えばいいじゃん
・親と向き合え、逃げるな
・分かり合えるよ
・(私は親から逃げているので)そんな扱いをされたら、親のほうが可哀想

私が今まで、立場を説明せざるを得なかったときに、浴びてきた言葉です…。


親子は分かりあわなければいけない。
たとえどんなに酷い虐待にあったとしても、親にも辛いことがあったのだから理解しないといけない。

私はそもそも、親との対話がまったく成り立たなくて苦しんできたし、良好な関係を築こうと努力してきた時期もありました、
それでも足りない、まだ足りないと言われるんです。

虐待した親に対して、
「子どもも限界なんだから、理解しろ」
と言ってくれる人は、誰もいないのにね…。

実はまだ勉強しはじめたばかりなんですが、私は、
「この国になじみきって、みんなが意識できなくなっている『儒教』の影響なのでは?」
と思っているのです。
今ちょっと儒教についての本を読んでいて、なんとか最後まで読みたいな…。

たとえ苦しんだ側に寄り添おうとしても、取材者や番組制作者もまた、そうした空気を当たり前に吸ってはいる。そういうことなのかなと思っています。


最後、私は一般の人たちにまでトラウマの知識を知るべき、とは押し付けるのはちょっと…と思ってきました。ただ、そうした人たちと接することが多い人たちが知識を持っているだけで、よりよい方向に行くことはあるんじゃないかな。
そう思っています。



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