穿った見方で「すずめの戸締まり」(ネタバレ)
すずめの戸締まりの感想記事で、なぜ自分はそう捉えたかの本編での言及をしてなかったので、ここに。
ネタバレと勘違いと決めつけアリ。
現実から始まる「君の名は。」と夢から始まる「すずめの戸締まり」
「君の名は。」の冒頭は電車に乗る瀧と三葉の回想からはじまる。
これがクライマックスに繋がる時間軸なわけだが、この時間軸では彗星での被害は無かったということになっている。
一方で「すずめの戸締まり」のほうは幼い頃に生き別れた母親を探す自分の夢から始まる。
作品という創作物でありながら悲劇は起きなかったことを現実として描写する前者に対し、
後者は、悲劇は現実でも夢の中でも、フィクションの中ですらも起きたことを明示している。
三葉の登校シーンとの酷似
夢から覚めたすずめが朝のニュースを見ながら朝食をとり、家から出て階段を下り、友人と登校するシークエンスは「君の名は。」と同じどころか絵面まで似たものになっている。
しかし爽やかな目覚めを演出していた「君の名は。」に対して、コチラはそういう演出がない。
どこか不穏な雰囲気。
踏切を渡らないすずめ
「君の名は。」でも踏切が登場し、友人と共に渡るシーンが登場するが、
今作の場合だと踏切前でさきほどすれ違った草太を追って引き返す。
「君の名は。」も「すずめの戸締まり」でも、扉や線路といった外界との境界線に見立てて演出するが、
踏切を渡れば、それはいつもと変わらない登校、6年前の「君の名は。」と同じものになることを暗示させる。
踏切を渡らずに引き返したことで、前々作との違いを強調させる。
事象そのものを無かったことにするすずめ
要石を抜いてしまったことにより災いが起こり始め、気付いたすずめは廃墟の扉へ向かい、草太と共に扉を閉めてミミズを抑え込むことに成功する。
「君の名は。」では彗星の落下そのものは回避されていない。しかし今回は起こるはずだった災いそのものを抑え込んで無かったことにした。
当然ながら甚大な被害もなく、普通なら起きたであろう事自体が起きなかったことになる。
猫のダイジン登場
物語を動かすキャラクターである猫のダイジンがこのタイミングで登場。
すずめから餌をもらったことにより気に入り、傍にいた草太を椅子に変えて、以降すずめに執着するようになるが、
ダイジン自体の説明がほとんど描かれないうえ、すずめに執着する姿や言動なんかは人間的にも見える。
フェリーに乗って遠出し、中学校でミミズを抑える
フェリーと言うと「天気の子」の冒頭で主人公の帆高が東京へ一人向かうフェリーを思い出す。
そのうえ、このときミミズが出現したのは中学校入口から。「天気の子」の帆高とヒロインの陽菜は共に中学生であり、帆高は最後に陽菜のために東京を水没させることを覚悟する。
帆高自身が災いを象徴していると言ってもいい。
中学校からミミズが出てきて、それを抑え込むというのは、「あいつ(帆高)を中学校から出すな!」とでも言ってるかのよう(笑)
過去2作品の拒絶後の女子トークと後ろ向いた草太(椅子)
ここまでで前2作品を彷彿とさせる描写の数々と、ミミズという表現で”抑え込む”という構図が、この作品が過去2作品の否定から始まったことを意味する。
それを象徴するかのように、中学校での一件を終えた後、旅館での女子トークが始まる。
それまで女性の描き方に問題があると指摘されてきた過去2作品から一転して、女性の他愛もない会話が展開されることは、ここから先が本当の「すずめの戸締まり」であると言ってもいい。
彼氏がいるかいないか、いたとしてもろくでもない等々。女性目線からの男性像が語られるが、そんな会話を聞いているのか寝ているのか、後ろ向いた椅子の草太の姿がまるで怒られているようにも見える。
本当の意味での「すずめの戸締まり」本編開始
愛媛から神戸、そして東京へと向かう最中での草太とすずめのやり取りは、比較的丁寧にそのドタバタありの交流を描き出す。
前作までなら曲と共にダイジェストに描いてもいいぐらいだが、ここで描かれたスナックでの交流と子供達の描写、草太との距離の縮まり方というのは前作には見られなかった部分だ。親が心配する描写などは特に。
過去作との違いを強調するためにも必要なものだったと思う。
富士山を見れなかったことを悔しがるすずめ
東京へ向かう途中の新幹線で富士山を見過ごしたことを草太に怒るなにげないシーン。
別段意味はないとは思うが、自分は後々出てくる台詞や「君の名は。」で惨劇を巻き起こした事象そのものを「美しい」と表現した描写をして、
日本の美しい風景として象徴である富士山もまた、火山活動等で被害をもたらしたものであることは間違いなく、
しかしながらその記憶も薄れ広まった今の世では、見れなったことが悲しいとまで言われてしまうほどになったという。
「君の名は。」から「天気の子」へと繋がっていった監督の考えの一つがここに表現されているのではないかと思った。
小さな悲劇の上に成り立つ多数の無自覚の安全
東京でのミミズを抑え込んだことにより(恐らく関東大震災レベル)人々の安全は守られたが一緒に旅してきた草太を失ったという構図は「天気の子」の裏返しと言える。
すずめとダイジン。監督と観客。
東京での一件後にダイジンが現れてすずめに接近するシーン。
個人的にはここのダイジンの描写はそれまでとは想像つかないほど突拍子で馴れ馴れしく描かれているが、
登場してすずめから餌を貰うシーンが、いわゆる「君の名は。」オマージュの終わり際だったのに対し、今回はいわゆる「天気の子」のラストを裏返したようなシーンでの登場。
その構図が、自分には「君の名は。」から新海誠作品に入った観客(俺)そのものを表しているように見えた。
対するすずめが、いわば監督自身。
自分は、ダイジンを掴み、地面に叩きつけようとするすずめの姿が、観客を否定したくても否定しきれない監督の悩みそのものを表しているような、勝手な想像を膨らませてしまった。
東北への道と神木隆之介の存在
東北へと向かうシークエンスは正直予想できた。
なぜなら序盤にあれほど「君の名は。」や「天気の子」を彷彿とさせておいたうえ、地震が題材となればどう考えても6年前のやりなおしをしているかのように見えたから。
神木隆之介演じる芹澤が特に象徴的で、監督自身、神木隆之介とはかなり仲が良い間柄として度々名前があがるが、今作では最初乗る気ではなかったという。
しかし新海監督のたっての希望で三作品連続出演という流れになったそうだが、そこまで熱望したのは「君の名は。」で被災地の糸守町へ向かう瀧と重ね合わせるためであろう。
ダイジンの言葉が他の人にも聞こえるようになる
芹澤の車で東北へと向おうとするときに乗り込んだダイジンの台詞がすずめ以外にも聞こえるようになるのは、ここから先はすずめのみならず他者を巻き込むフィクションとしての色を強くさせているように見える。
それまでのすずめは誰にも共有できない現象(フィクション)によって翻弄され東京まで来たが、ダイジンの言葉が聞こえるようになるというあり得ない現象が作品内の全てに染まることによって、ここから先はフィクションとして現実に起きた悲劇と向き合う展開を暗示させる。
80年代懐メロを聞きながらの北上
ルージュの伝言から始まる80年代の懐メロは、場面毎に曲名や歌詞にあった選曲となっているが、80年代に固まっている理由として考えられるのは、新海監督の趣味の可能性であると同時に、監督が学生時代に聴いた曲だと思われる。
1972年生まれの新海誠監督。80年代後半は学生真っ只中で、89年にはルージュの伝言を主題歌に起用したジブリの「魔女の宅急便」が公開されている。
学生時代を振り返りながら東北へ向かうというようにも見える構図は、2016年までの監督の道のりというものを表現しているのかもしれない。
悲劇のうえに成り立つ美しさ
地震と津波、あるいは原発事故で更地や廃墟となった土地が、夕日に照らされる様を見て、芹澤は「綺麗」と表現するが、すずめは「これが?」と返すシーン。
6年前の「君の名は。」では冒頭の彗星の光景を見て、主人公の二人は「ただひたすらに美しい眺めだった」としており、同時に彗星を天体ショーとして日本中が楽しんでいる。
ここで直接的に「君の名は。」で描いたことに対するカウンターを入れていると言ってもいい。(恐らくはすずめが富士山を見れなったこともこの意図があったかもしれない)
悲劇はどうやったって悲劇にしか映らないが、当事者以外にはそう見えなかったりする現実。
「道が間違っています」「知ってるよ!」
芹澤の車が落ちて動かなくなり、立往生するシーンでカーナビから発せられた言葉に芹澤がツッコむ。
穿った見方しかできない自分は新海誠監督が得意とする演出等を封印した今作、あるいはここ3作品の方向性に対してのように聞こえた。
「わかってるよそんなこと!」
繰り返されようとしている災いを止める
東北の思い出の地での扉をくぐり、現実ではない場所で怪獣バトルをよそに要石をはめ込むシークエンス。
それまでは現実世界のうえで扉を閉めてミミズを抑えてきたが、ここでは明確に過去の惨劇を彷彿とさせる死の世界でミミズを抑え込もうとする。
東京以降、ダイジンの言葉がすずめ以外にも聞こえるようになってフィクションの色が強くなり、ここで半ば時間を遡った世界で奮闘する様は「君の名は。」で時間を遡り三葉と協力して惨劇を止めようとする構図と似ている。
すなわち東京から旅立つ以降は、6年前はやりきれたとは言えなかった、クリエイターとして震災と向き合う形での「君の名は。」の再現。
ラストのすずめと草太の再会も、恐らくは「君の名は。」を意識させるためのもの。
個人的な映画
過去作との違いを訴えかけるような描写の数々で、クリエイターとして震災と向き合うことを改めてやり直す今作「すずめの戸締まり」。
だが結局は新海誠監督個人の語りであることは間違いなく、
この作品が真に震災を描いたものかどうかというジャッジは出来ない。
地震というものを神事と照らし合わせるような描写や、すずめ自らが要石を抜いたにも関わらず、最終的にはすずめの過去との向き合い方の話になるなど、震災を描くという意味ではあまりにも的外れな部分が目立つ。
しかしながら、6年前の「君の名は。」で指摘された部分を見つめ直して今作を作ろうと決めた意志は揺るぎない事実。
自分としてはその思いが確認できただけでも大満足といったところ(勿論、それはこうやって穿った見方をした勘違い込みで)。
でも同時に、これから監督はどうするんだろうなという不安も少なからず、ある・・・。
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