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成瀬は天下を取らされた

成長とはなんだろうか。高校生に上がった頃からよく考えている。
辞書には「大人になる事」と説明があるが、それは技術や能力についてだろう。スキルが向上し、定量的に一人前になったと認められれば、「成長したな」と褒められるし、そこに違和感はない。しかし、人格や思考のような、定性的で優劣のないものに対して行われる「成長した」という評価は、いったいどのような変化に対するものなのだろうか。

僕は人間的な成長というものは、「受け入れる事」だと思う。

人の心はもともと単色なのだろう。母から優しいが与えられる。父の理知的なを知る。小学校でたまたま同じ地区に住んでいた子のを取り込み、中学校で気になる彼女に近づくためにを学ぶ。高校で喧嘩別れした彼への後悔がく残り、大学では心地よいに交わる。

そういって個人のオリジナル色を元にしつつ、色んな色を取り込んでいく。二十歳を超えて衝突が少なくなるのは、みんなパレットが似たような黒に収束しているからかも知れない。その黒に深みがあると捉えるか、濁っていると捉えるか、物の見方次第だとは思う。とにかく、他者の色を「受け入れる事」が、人間的に大人になる事だと思う。

この解釈が正しいとすると、「異彩を放つ」というのは、「単色である」という事になる。天才や鬼才は雑多な黒をパレットに持つ人混みの中で、一際目立ってその色を世に知らしめてしまう。

さらに考えを深めると、単色状態の天才には2種類あると思えてくる。混色を拒む者と色の混ぜ方が分からない者だ。前者は選択的に単色であるが、後者は先天的に単色である。つまり、後者は混色能力の欠落した、「天才にならざるを得ないパレット」なのだ。

本作の主人公である成瀬は、悲しいほどに「天才にならざるを得ないパレット」だ。6話の中編で構成される本作は、最終編の「ときめき江州音頭」以外、周囲の人間の視点で語られる。成瀬に心酔する者、遠ざける者、魅了される者。皆、成瀬の単色のキャラクターに心を動かされている。皆、成瀬の中に天才性を感じている。しかしながら最終編では、成瀬の内面が明らかにされる。愛すべき成瀬の天才性から想像していた内面はなく、我々凡才でも理解できてしまう情緒を彼女は持っていた。

天才になりたかった平凡な人間の苦しみと、天才になることを強いられた人間の不幸を、僕は比較できない。成瀬に色を取り込む能力があり、彼女の青春のパレットがくすんだ黒になった方が、彼女は幸せになっていた可能性を僕は否定できない。

平穏が許される周囲の人間から好奇の眼を向けられつつ、先天的に天下を取る事を強いられた成瀬を描いた本作は、少々のグロテスクを感じてしまう。

成瀬がこれから他者の色を取り込む事を覚えたとき、成瀬はどのような選択をするのだろうか。また、周囲の人間はどう評価するだろうか。天下を取りに行かなくなった彼女に取りに行かせるような出来事が起こるかもしれない。

成瀬がフィクションの人物なのはある種の救いかも知れない。僕たちが現実で単色の異「サイ」を見つけたとき、どう接するべきかを考えてみようと思う。

宮脇


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