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人を怒らせた

足立です。先ほどめちゃくちゃ人を怒らせました。

はじめてお会いした方だったのですが、おそらくは僕の人当たりの問題でぶち切れさせてしまいました。楽しみにしててくださったのに…。申し訳ない。

SNSで知り合ってお話しましょうということになり、下北沢で待ち合わせてお茶しよう的な感じでした。まず待ち合わせの時点で僕が34分遅刻をやらかし、スタバの500円券をお送りしました。

落ち合った時点でどうやら荷物を整理していたらしく、僕はそれを横目にずっとスマホを弄っていました。人見知りですか?と聞かれたので、たぶんそういう感じだと思いますと答えたら???という顔をされ、どこかしら不機嫌になられておりました。

その後カフェに向かうのですが、目的地が決まっていたので僕はすたすたと歩き出してしまいました、相手は下北沢が初めてということだったので、ゆっくり見たかったのかもしれません。なんで縦に並んで歩いてるの、おかしいでしょ、これ、と怒られました。

たしかに、初めてのアポイントでは目的地に向かう際も他愛のない雑談をするものだと理解し、スタってしまったことを反省しました。そこで、歩くの早かったですか?ゆっくりにしましょうか、と声をかけました。すると、いやそういうことじゃない、と返ってきました。

思えば僕の対応ひとつひとつが機械的で、怒られたからじゃあこう修正しましょう、なるほど、ではこうしましょう、クライアントとお客様のようなコミュニケーションだったと自負しています。相手が求めていたのはそんな淡々としたものでなく、僕の方から発せられる貴方と話したい、もっと話を聞かせてほしいという姿勢だったのだと思います。

結局カフェは無しになり、ぶらぶらと散歩をすることになりました。方向音痴と仰っていたので、僕が先導しつつ、いい感じに歩調を合わせることを意識しながら、それでも普段は歩くのゆっくりな方なんですかね?あ、違う、ならもう少し早歩きでも、全然大丈夫です!と返したらまた怒られてしまいました。

他にも道を曲がるのが突然すぎる(たしかに、少し戻って曲がるような形で急でした)、会話を盛り上げたいから、なにか僕について気になること、なんでも言ってみてください、会話を広げたいので、ぜひ質問をしてみてください、他の方とは普段どんなお話を?など、なんとか会話に繋げようとしたそれら悉くが裏目に出て、もうどうやっても取り返せないほどに最悪の機嫌にさせてしまいました。

どう足掻いても八方塞がりで、散歩の途中、もうお開きにしましょう、今日は本当にすみませんでした。と告げて駅に向かいました。迷われてしまうのではと心配になり、駅まで案内しようとしたのですが、もういい、いいから、と言われ、その場で解散しました。その時点で駅までの道のりは少し複雑だったので、ちゃんと辿り着けたのか、今でも心配です。

最後に、僕の対応でなにか悪いところがあったら教えてくださいと伺ったら、もうなにもかもが的外れなんよ、全然違うんよ、と言われました。そうか、そうだなあ…。至らなくて本当に申し訳ない。

人をイラッとさせてしまうことは今まで何度かありましたが、ここまでのは久々だったので、さっきの今でそれなりに憔悴しています。考えてみたら、わかりやすく怒ってくださったのはむしろありがたいことかもしれません。それなりに人に寄り添えているという傲慢が最近はありました。それはあくまでそれを好意として受け取ってくれる相手があってこそであったということを、あらためて認識しました。僕がやさしさとして発したものを、察してやさしさとして受け取ってくれる相手がいたからこそのもの。

そして思い返してみれば、やはりどの対応もアスペルガー丸出し、感情に寄り添うというより対処療法的に、ではこうしましょう、お互いの不快を最小限にするために何ができるか、そういうメタを介して合理化するような姿勢そのものが、僕にとっては誠意であるものの、大変寂しく感じられてしまう、ひどく距離を取られていると感じてしまう人がいること、今回のことで大変学びになりました。

とはいえ僕に何ができたのか、と考えてもたぶん何もできませんでした。おそらく必要だったのは、そもそも近づかないこと。直感的に(経験を積んで)関係性の向かってしまう先を言葉や態度から読み取れるようになり、お互いのためにそもそも始めないこと。冷たい、寂しいとは思うけど、おそらくはそれが最善でした。

距離感のコントロール、大人であるということはそもそもの関係性を始めるかどうかというところからリテラシーが問われています。関係性に対する直感を磨く、極力、僕の目の届く範囲で起きる傷つきを最小限にするためには、結局鍛えていくしかない、と思っています。今まで以上にいろんな世界の人々と会って、話して、必要なだけ深めて、バグるときはバグってしまう。そこから最大限学び、二度と繰り返さない。

生まれてから死ぬまでに、(自分を含めた)世界に、自分の力で生み落としたやさしさが、起こしてしまった傷つきの総量を越えていれば、それはきっとやさしい生き方だったと、言うことができると思います。

若さを免罪符にはしてはいけない、それは本当にそうなんだけど、それでも傷つけてしまうことの恐ろしさより、必要であれば関係性に踏み込んでみたり、必要なだけ広げてみたり、そういう勇気を失わないことが、未来の自分にとっても、そして世界にとっても、有益なことだと、そう思っています。今は恐れない、腐らない、僕は人を知りたいし、やさしくなりたい。これからも傷つかず、傷つけず、苦しくならないだけのやさしさを配りつつ、人々と交わっていきたい。交わっていたい。いつかのやさしさを夢見て。これはエゴ、だから人々を幸せにするエゴにしたい。

以上でした。
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自分の中で昇華せざるには居られませんでした。ごめんなさい。せめて誰も不幸にしないことを願います。

もっとおもしろくなりたいです