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悪口はなぜ書かないほうがいい?愚痴を「魅力的な文章」に変える方法

「愚痴を全然書かなくて、エライよね」

大学時代からの仲のいい友人が、ある時、私のSNSを指してそう言いました。確かに私はまったく愚痴・悪口を書きません。でも「エライ」かといえば、そうじゃない。

私も気心の知れた友達と会う時など、つい悪口を言いたくなることもあります。むしろ他の人には言えない悪口を、友達には言えることが醍醐味でもあります。共通の敵を見つけると、仲間同士の結束力が高まることも。

でも悪口は「書かない」ほうがいい。
それは自分のためなんです。

私が確固としてそう考える理由と、悪口を文章のネタに変える方法を書いてみます。

悪口を書く=自分が傷つく

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私も、8年くらい前は、悪口をついついSNSに書き込んでいたことがありました。その頃は北京に住んでいて、現地スタッフとのギャップに苛立ったり。解決しようのない大気汚染に悩んでみたり。

「自分は正しい。だから不平を書いても仕方ない。きっとみんな共感してくれる」という気持ちでした。

悪口を書くと、いったんはスッキリした気持ちになります。でも翌日書いたことを見返すと、忘れかけていたはずのことまで思い出し、モヤモヤとした負の感情が湧き上がることに気がつきました。

自分の書いた文章を、いちばん読むのは自分。

書いた内容に、もっとも影響を受けるのは自分の脳でした。書いても何も事態が変わらなかったばかりか、ますます私は周囲へのイライラをつのらせることに。

ひとの脳は悪口を書くと、自分も悪口を書かれた時と同じ状態になるそうです。みすみす自分を傷つかせるなんて、そんなバカげたことはない。

反対に人を褒めると、自分の脳も褒められたと同じ状態になるそうで、これはお得だから私はよく実践しています(笑)


人は悪口を「自分ごと」として勘違いしやすい

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ある時、私の同僚がこんなことをSNSに書き込んでいました。

「だから早く書類送ってって言ったのに!」

たまたま私は彼女と一緒に仕事をしており、仲が良かったので、お互いに仕事が落ち着いたランチタイムに聞いてみました。

「もしかしてこの間の企画書、待たせちゃった?」

すると彼女は意外そうな顔をしたので、事情を聞いてみると、外部の協力会社さんから送ってもらう予定の書類を待っていたとのことでした。
な〜んだ。私はホッとしたのと同時に、ある習性を発見しました。

人は不平不満を聞くと「自分のこと?」と不安になってしまうんです。

誰かが悪口を言っていると、陰で自分も言われているのではないかと、心配になることがありますよね。それと同じで、公開された場所で批判的な文章を目にすると、「それって私?」「自分は大丈夫だっけ?」と、ついつい自分のことに置き換えて考えてしまうようです。

ネット上に書かれた悪口は、大体の場合、特定の人をボヤかした表現にすることが多い。すると書き手はある1人のことを指しているのに、それを見た大勢が「それって私のことかも」と勘違いするリスクがあります。

私は以前、明らかに私と特定できるような書き方で悪口を書かれてしまったことがありました。それは一生忘れられない悲しい記憶になりました。
単なる一時的な感情で書いたとしても、書かれた方からすると、もう2度とその人とは話したくないと思えるくらいの心の傷になります。

せっかく仲良くなった人にそうした気持ちを勘違いさせてしまうのは、双方にとって残念すぎます。


「いつも悪口を言ってる人」になってしまう

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悪口は1回書いただけでも、けっこう目立ちます。
しかも消えないんです。
白いTシャツに、ぽつんとある醤油のシミのように。

すると自分ではそんなに書いているつもりがなくても、周囲の中でなぜか「よく悪口を言っている人」という印象が残ってしまいます。

私が人といちばんよく会っているのは、SNSです。この外出自粛生活に入ってからは特に。

そんなとき、実生活の自分がいくら善良でおもしろい人間であっても、SNS上でよく悪口を書いていると、その印象がどんどん植えつけられていってしまいます。

よく悪口を言っている人と会いたくはないし、ましてや一緒に仕事をするなんて絶対にしたくありません。本当はそんな人じゃなかったとしても、そう相手に思わせてしまったら、かなり損なことですよね。


悪口は文章の最高のスパイスになる

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でもいっぽうで、悪口は最高の文章のスパイスになることも。

唐辛子は、それ単体だと辛いだけで美味しくない。でも麻婆豆腐に入ると欠かせないスパイスになります。それと同じです。

たとえば私は以前「義母の料理が妊娠中の体に合わなくてツラくて、喧嘩して、義母を泣かせた」ことを文章に書きました。それだけだと、喧嘩したことを吐露しただけで終わってしまいます。

でもそこから謝りに行き、「ツラかったなら口に出して言えばよかったんだ」という、自分なりを結論を持ってくることで愚痴だった文章に「気づき」が生まれます。

愚痴は、それだけだと有害です。でもそこから何を自分が課題だと考え、どう行動に生かし、何を学んだかをまとめれば、立派な文章として成立します。


また自分が愚痴りたくなることは、他の誰かも「愚痴りたくなるほど困っていること」かもしれません。もし自分がその状況を解決しようとチャレンジしたり、克服することがあったら、それを文章にまとめてみるのもひとつの手です。

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どうでしょう?ちょっと読んでみたくなる感じがしませんか?(笑)

こんなふうに、愚痴りたくなる状況を解決するために動く姿、そこから考えて得た気づきは、他の人にとっても参考になる魅力的なコンテンツになりえます。愚痴っていたことに共感さえも湧いてきます。

なかなか自分の弱い面を見せる人って、少ないですから。

ーー

今回は悪口について考えてみました。

私は悪口を書かないと決めてから、実生活でもあまりネガティブに考えることが少なくなった気がします。また愚痴りたい状況に出会うと、「これをいつか文章にしてやるぞ!」と思うと、前向きに乗り越えられたりします。

今週もたのしくがんばりましょう。

小森谷 友美
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