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私を構成しているのは吃音だけじゃないと気付いた日


吃音(きつおん)

この漢字2文字、ひらがな4文字が、
私には小さい頃からあまりにも大きすぎる存在で、
私を構成する要素と言われて、まず真っ先に思い浮かべるものだった。

自分ってなんだろう、
思春期に入ってそう考える度、口にしなくてもいつも頭の片隅には
その2文字が浮かび上がってた。

嫌なものって、良いものの上に簡単に上書きされちゃうように私の頭はできてるみたい。

考える度ネガティブな色の糸が頭にぐるぐる巻きにからまっていく感覚。
一回入ってしまったら、抜け出せないネガティブ迷路みたい。

吃音で一番辛かった大学生の時は、特に、

私=吃音症の子 

私=言葉が出なくて辛い子

私=できない子


って自分に強力なラベルを貼って、それに従うように生活していた。

だから何をするにも否定的になっちゃうし、
なんて思われるか気にしているうちに人が怖くなって、
いつも下を向いて歩くようになってた。
できないって思いこんでると、余計に言葉がでなくて、
「あ、やっぱり私言えないんだ」って思考が強化されて、

「ネガティブ発、自己否定経由、ネガティブ着」


の無限思考列車みたいな感じ。



そんな私の

私は吃音症の子だ


っていう、
がっちがちに固められて、
ポジティブワードの入る隙間もない思考を少しずつ溶かしてくれたのは、

大学で出会った
障害のある学生をサポートして下さるチームの
公認心理士の方でした。

今まで私が吃音症だと分かっていると、皆構えて、「吃音症を持っていて大変な思いをしている子」という一歩引いた感じで私と関わる方が多かったのですが、

その方は、私を「吃音症の子」として見るのではなく、

「ちなさん」として普通に接してくれました。


そんな方今までいなかったので、私の吃音の事知らないのかな?とか、
超ポジティブ人間かなんかなのかと思っていました(笑)

石田さんという女性の方だったのですが、
石田さんと喋っている時間だけは、
「ちな」でいれてとても体が軽かったです。

「支援する側」と「支援される側」

という関係性ではなくて、友達のようにただ寄り添っていただき、
ありがたかったです。

吃音の事や悩みをお話ししてもちゃんと聞いて寄り添ってくださるのに、
空気が重くて暗くならないので、私も自然と吃音の事をそんな重要でヤバい問題じゃないのかなといい意味で吃音と距離を置くことができました。
自分の中で吃音の比重がだんだん小さくなっていきました。

抜け出せない迷路で「ねえちょっと寄り道しよ」って
違う道を見せてくれた感じです。

「ネガティブ発、自己否定経由、ネガティブ着」の列車の降り方を知らなかった私に、ここの駅面白そう!って一緒に降りてくれた感じです。

吃音症が治ったわけでも、発表の授業の辛さがなくなったわけじゃないのに、石田さんがいるからもう少し頑張ってみようと残りの大学生活をなんとか乗り越えられました。

「吃音症の私」じゃない「私」の部分にも気付けるようになりました。


・一人が好きだと言っているけど、本当は人と喋るのが誰よりも好きな事
・実は誰よりも心理学に興味があって勉強を頑張りたいと思っている事
・人の気持ちを考えるからこそ辛くなる事
・私ってこんなに笑うんだって事
・吃音が嫌いだけど本当は自分の為に受け入れてあげたい事
・挑戦してみたいことがたくさんある事



自分がこんなに吃音で苦しんで、あのときあんなに話を聞いてほしかったのに、こんな声をかけてほしいと思ったのに、

今もし目の前に吃音で悩んでいる小学生がいたとしたら、
大学生がいたとしたら、なんて声を掛ければいいのかわかりません。

過去の自分になんて声を掛ければ、あの時の自分は
「救われたよ、安心できたよ」と言ってくれるのかわかりません。

でも石田さんに、

「一方的に貼ったレッテルに重きを置いて接しない」

「自分が見ているのは目の前の一部にすぎない」


「支援するー支援される」という上下関係で関わらない


「何かすることだけが正解じゃない。隣にただいるだけでも救われることがある」


ということを、接する中で教えてもらったような気がしています。


だからもし、本当にもしものもしも、こんな私に吃音症のお友達ができたら
(お友達自体作ることを避けてきた人生だから作れっこないかもしれないし、怖いけど)、

「吃音症の○○さん」じゃなくて「○○さん」として関わりたい。


何かの病気があったり障害があったり、何かに悩んでいる人と接するときも、その人を見る切り口が、「病気・障害・悩み」じゃなくて、

「目の前にいるその人自身」でありたい。


この考えが正解かはわかりません。間違っているかもしれません。
でも私はそれで救われたから、今はこれを大事にしていきたい。


勇気を出してnoteを初めて、ありがたいことにいろんなコメントをもらってそれを読んでいくうちに、ちょっとずつ、自分と吃音を切り離して、
「私の中にあるのは吃音だけじゃない」って
大学生の時より考えられるようになっています。

もしかしたら考え方もちょっとずつ成長できているのかもしれません。

まだまだ全然落ち込むし、ちょっと進んでちょっと戻るけど、
止まってはないような気がします。

大学生の時は半径1mの世界で生きていたんじゃないかと思う程、
最近は日常が広く見えるんです。


勇気を出して吃音症だと言葉にした誰かの目の前にいる方が、
その人自身に寄り添ってくれる方だったら嬉しい。

そしてその寄り添ってくれた方にも、
その人自身を受け止めてくれる存在がいてくれたら嬉しい。

そうやって温かい関係性が連鎖していったら嬉しい。

生きている限り、辛いことはやってくるけど、それでも、
「あの人がいるからもう少し耐えてみるか」
「あの場所があるからもうちょっと進んでみよう」
って思える人や場所、ものがみんなに一つでもあったらいい。

願いが叶うなら、石田さんに会ってお礼が言いたい。
でも電話番号も何も知らないし、今どこにいらっしゃるかも分からない。
それにちょっと恥ずかしいから、
私が毎日自分らしく生きようと進むこと、をお礼に代えて。

みんなの辛い出来事、見えない頑張りが、
必ずいつか
自分だけの素敵な物語の1ページになりますように。

ちな






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