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「ダンボール授乳室」を作りたくないからこそ、私は教員になった。

当事者性の欠けた政策は資源の無駄遣いである。
と、ダンボール授乳室のニュースを見ながら考えていた。

薄っぺらい一枚の壁に隔てられただけの空間にて肌をさらけだすことの不安は、日々被害と隣合わせな社会的弱者にしか共感できない事柄であろう。

また、赤ちゃんは大人しくミルクを飲んですやすや眠ってくれるだけと思っているのだろうか。ミルクを嫌がったり、飲んだミルクを吐いたりする。その時、紙製品である段ボールでは授乳室に相応しい清潔な環境を確保できるのか、子育て未経験者には想像し難いであろう。

ちなみに、当事者からの批判を浴びた「段ボール授乳室」は、改良を重ねながら今後3年間で150箇所に設置される予定であるそうだ。(注1)

いくら予算を投与しても、それがターゲットにとって必要のないものであればそもそも無かった方が良い。砂漠のど真ん中で見つけた遭難者に対して、ヘリを要請せずに支援物資として延々とダイヤモンドを与え続けるようなものである。

そのような場面は政治と学校の関係でもしばしば見受けられる。

現在、教育現場は多忙を極めている。

話には聞いていたが、実際に働いてみると教員として退職まで働くことが不可能だと思えてくる。

部活動指導、生徒指導、分掌業務をこなしていると知らぬ間に時計は19:00、20:00を指している。勤務時間に授業研究などの自己研鑽の時間は殆どない。

また、同じく子どもたちも学校という場所に疲弊しているであろう姿が多々見受けられる。

他の教科の事情を全く考慮していない量の課題、ただ聞くだけで時間が過ぎる受け身の授業、テストでいい点を取るためだけの勉強という名の暗記、体調を全く考慮せず行われる厳しい部活動。挙げ始めたらキリがない。

正直、私は親しい友人にこの仕事を勧めないであろうし、自分自身の将来を再考することを余儀なくされている。

そんな過酷で人手不足に陥っている現場を立て直すために政治が行ったことは何であろうか。

「#教師のバトン」(注2)、教員採用試験の前倒し、教育学部生への臨時免許発行などが記憶に新しい。

このような表面的な政策を我々教員はもちろん、教員志望の学生も求めてはいない。我々が求めているのは適正な給与と持続可能な労働環境である。現場の疲弊が政治家に伝わっていないのだとショックを受けた。

政治は本来、我々の生活に根ざす身近な営みであり、政治家の第一の仕事は市民国民の声を聞くために現場を訪れることだと考える。

今の政治の状況を見渡すと、本当に市民国民の声を聞き、政策を実行しているケースが極めて少ない。

繰り返しになるが、当事者性の欠けた政策は資源の無駄遣いである。

選挙戦略や地盤固めに躍起になり政治本来の意味を見失ってはいけない。自分の保身のみを考える人ではなく市民のため、国民のために走り回ることのできる方に私たちの命運を委ねたい。

そのように考える私は、後者のような政治家になるべくして現場にいる。私のゴールは教師になることではない。子どもたち全員が安心して過ごせる環境を整えること、自身のバックグラウンドに左右されずに好きなことができる社会を作ることである。

政治を通してこのゴールを実現するためには手始めに、当事者の声を聞かなければならない。現場の温度感を知り、何が政治に求められているのかを理解する。そのために私は教員採用試験を受け、今教壇に立っている。

しかし今は前述の通り、1日1日を必死に生きている最中である。政治に関わるわけにもいかず、ゴールから遠ざかってしまっているように思える。

そう思うときは一旦、なぜ教師になったのかを思い出してみる。急がば回れ、だ。「段ボール授乳室」のような的外れな支援政策を作りたくないからこそ、私は今日も教師として働くのだ。

注1)参考「テレ朝news
注2)Xアカウント
「#教師のバトンプロジェクト」@teachars_baton


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