![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52974994/rectangle_large_type_2_74c59e4f9405a2e47c700d25b767a548.jpg?width=800)
生まれて初めての海外 1981年
大学を4月に卒業して、その年の10月にはイラン-イラク戦争のど真ん中、 キルクークと言う場所で、イラクノースガスプロジェクトと言う工事で、
イラクに滞在していました。
場所はここ。
![地図](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52975673/picture_pc_558394d377f9fc6bc432546e2c98605d.jpg?width=800)
当時は、戦争中と言うこともあり、
家族に出張先で死んでも会社を訴えませんと言う誓約書を書いて、
唯一と言っていい戦争特約付きの住友生命の海外保険に加入し、
イラクへ行きました。
特約保険料だけで、年間3万円だったと記憶しています。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52976054/picture_pc_3e5ba04ec462925532a51a861204336c.jpg)
パスポートのビザがこれです。
なかなか見ることが無いビザですね。
現場は、砂漠の真ん中にサイトがあり、工事現場があります。
簡単に言うと、フェンスで囲まれた冷房付きの簡易宿舎に閉じ込められ、
食事もサイトの食堂でとるという、まるで強制収容所での生活です。
お風呂だけは日本人向けの大浴場があり、非常に良かったです。
フィリピン人のワーカーのサイトにはシャワーしかありませんでした。
朝起きると、食堂で朝食、バスで工事現場に移動して、朝礼。
昼にはまたバスで、サイトに戻り食堂で昼食。
午後は炎天下の砂漠で仕事。
日本人は馬鹿なので、炎天下で頑張りすぎて、鼻血を吹いて倒れます。
ワーカーはその辺は慣れたもので、倒れない程度の仕事しかしません。
何度も倒れる日本人を見て、
お昼にクーラーの聞いた食堂に行くのが危ないと気が付き、
クルデ族のワーカーにお金を渡して、ワーカーと一緒に昼食をとり、
配管の陰で昼休みをとる方法に変えて、
何とか乾季の気温50度をしのぎました。
フィリピン人が闇の酒場を見つけてきて、
一緒に飲みに行ったりもしました。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52977576/picture_pc_1236f43838699c69d8efe31492a401b4.jpg)
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52977590/picture_pc_66389a8979da9600fdd4b974e7ca0e56.jpg)
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52977602/picture_pc_8e08588fd6abd239e77b28e2f9877c89.jpg?width=800)
珍しい闇酒場での写真です。
イラクはディナールと言うお金の単位で、このようなお札でした。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52977704/picture_pc_0f086ace97585938edbd7398ca621748.jpg)
カメラの持ち込みが非常に厳しく、
現場用のカメラで撮った写真しかないため、写真は少ないです。
工事も一段落ついて、日本に戻りましたが、
成田の税関でパスポートを見せたら、
税関職員に「外貨獲得ご苦労様です。」と敬礼をされました。
当時は変動相場制になったばかりの頃で、US1$220円だったと思います。
その後、爆弾テロ華やかなスリランカや、タイ、中国、香港など
東南アジアを中心に仕事をしていました。
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