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ちょっと哲学

 人類の最大の武器は科学です。科学は、自然・社会・心的世界といった存在とその運動についての既存の認識の到達点を超えて人間の認識をよりリアルにすることを課題にしています。科学は思考の産物です。

それでは、私たちどのように思考すればリアルな世界がわかるようになるのでしょうか?そのような思考についての科学はあるのでしょうか?


自由とは必然の認識である

水が高いところから低いところに流れる(落下する)という認識ができると、水を貯めたいところに穴を掘り、溝を作り、水に浸かると困るところを高くしたり、堤をつくったりします。つまり、人間は自らの目的に合わせて自らが認識した法則を利用することが出来ます。

同時にまた、自らの目的が実現不可能な願望であることが分かると、その目的を放棄したり修正することが可能になります。つまり合理的な選択肢がわかり、非合理な選択肢を選ばないことで、目的達成が可能になり、無駄な失敗を繰り返さずに済むようになります。

「自由とは必然の認識である」ということですね。

さて、人類が世界を解釈し、その法則を利用した実践をおこなうことで様々な成果を獲得できることがわかると、人類は、物事についてほんとうに多くの知を発見してゆきます。

発見されたひとつひとつの知恵は、単なる知恵の粒に終わるのではなく、人々はその知恵どうしを関連付ける様になります。

例えば、夕焼けをみると明日は晴れそうだとか、闇と墨と黒猫は同じく性質を持つのにちがいないとか、魚のとれる時期と天候とに関係があるので、星とか雲に魚の名前与えようとか、合理的なものもあれば、かなり非合理なものもありますが、知は体系化されたもの知識へと発展し、蓄積されていきます。文字の発明はそれを記録し広げる作用があります。

人々が日々生きていくための考えの支えとなる実践的行動規範も、このように生まれ、また、そこから人間関係のルールとか、神秘的な物への対処の仕方とか様々な意識形態(イデオロギー)が生まれてきます。

イデオロギーの中には、実際のリアルな世界をきちっと反映した、科学的なイデオロギーと、それとは別に、神秘的で、誤った、事実とは異なる、そのような自分の考えのでどころを知らない、虚偽のイデオロギーがあります。


哲学の誕生

知恵の集合体の中に知識(知をまとめた物)としての体系が生まれてくると、次には、より理論的、合理的に対象世界を説明する根本的な存在や法則を発見しようという試みがなされるようになります。それを個人でまとめあげたものが哲学です。

哲学が姿を現す以前に、その中には当時の科学や社会の発達の未発達さを前提に、様々な知恵が溶け込んだ物語の世界が形成されます。その中には、科学の未発達、社会の未発達を背景とした、様々な誤った認識もあり、それらの知識では説明できない事実を想像で補うという行為が成されます。


神を生み出すもの

こうした知識の体系は、神話を形成し、神話を通じて伝承されます。
様々な神々とその特性は、それぞれの神を正統化する神の性質の独自性を生み出す対象世界の知恵が反映しています。火の神に水の神と違う特性があるのは、もともと火と水という自然物、自然現象がことなることに由来します。火の神が生まれたから火ができた、水の神が生まれたから水ができたのではありませんね。

いろいろな火を観察する中で火一般を捉えようとする試みは、火の暖かさ、火の恐ろしさ、殺菌などの浄化作用、などの諸性質についての知恵と神秘主義とによって豊富化されるとともに、より一般的に火をとらえようとする試みとも合体します。

火は酸素と他の元素の化学反応の現象ですが、それを知るまで、火は人々にとっては、まったく神秘的なものでした。生活の中で利用される火も、火山の溶岩や山火事などの火も、不思議さや壮大さを感じさせます。そして自然現象の無理解は火を神秘的なものとして認識させます。

さらに火は神として主体を持つものであるから、何らかの人間に似かよった性格をも有する者が想像され、ここから火の精霊や火の神が生まれます。あるいは、火そのものは神でなくとも、もともと人が扱うことができずに、神の世界にのみ存在していたかのような、ギリシャ神話のプロメテウスのようなお話が生まれてきます。

これらの自然的諸属性を発揮する大本は、主体をもった神秘的なものとされ、火だけではなく、諸属性を統括的代表者である諸神が創造されることになります。ギリシャのオリンポスに集う主神達は、空や海や大地や地底を代表するものとして象徴的に精錬されていきます。

神を生み出すもの、それは人間です。


唯一神から絶対者へ

このような雑多な知識をつめこみつつ体系化されていく神話は、やがて、神が持つべき合理性、真理性への要求から、それぞれの神の特殊性を否定し、個々の神々の自立性を奪って、神一般を想像するようになります。より普遍的で絶大で決定的な存在である神が作られます。絶対神、唯一神はこのようにして作られていきます。

さらに、神は、その人間に似た全ての性質が普遍的でないものを含むため、全ての具体性を剥ぎ取られた唯一のもの、例えば絶対的精神といったピュアな想像の産物の頂点であり終点にたどり着きます。

こう書くと神話は神話それ自体に発展するエネルギーがあるかのように思えますが、農業・牧畜の発達を通じて、土地や農具を持つ男に女が従属し、家父長的家族関係がうまれていくと、主神が女神から父なる神に変化したり、冬至についての民間神話とキリスト教の融合からクリスマスがうまれたり、資本主義の黎明期には、お金を稼ぐことも天の意志だと、プロテスタンチズムがキリスト教を修正していくなど、宗教は、世俗的なイデオロギーの変化や科学の発達に影響を受けるものです。

宗教的イデオロギーはそれ自体自立した存在ではなく、人々の頭脳が生み出す精神活動の中で担われています。だから、人が、人と人との関係が変われば、それに大きな影響を受けるものなのです。

ヘーゲルの絶対的精神のようにさらに神の具体的属性が洗練されて削り取られ絶対的精神といった純粋の主体として描かれると、それは、かえって否定しやすいものになります。


科学の進歩と哲学の進歩

哲学と科学の進歩の間にも、興味深い歴史があります。

現実の自然との対峙や社会、自分との対峙の中で合理的法則を獲得しようという知的営為がなされていきます。諸科学の発展と共に、哲学は相対的に神話との距離を置くようになっていきます。

当初哲学が要求したのは、世界を細々とした知恵の集積として細部を分析していくという行為ではなく、さしあたり、大ざっぱに、世界の姿を捉えることでした。宇宙とは何か、物質とは何か、精神とは何かといったことを対象にしたために、具体的な事物がいかなるものかという点では、奇妙な主張も沢山残されることになりました。

暗黒の中世が終わって、文芸復興(ルネサンス)を向かえ、さらにマニュファクチュア—から産業革命を向かえるヨーロッパでは、技術と産業、社会の発達の中で、それまでの大ざっぱな知識に変わって、実験や観察を通じて世界をバラバラに分解し、さらにそれを組み立てることで真理を獲得できるという分析主義的な科学が発達します。


ジョン・ロック



機械論的唯物論は、社会の諸事情を生み出すのは神や聖霊などではなくて、それを生み出す物質的、社会的原因によるものだと主張します。ただ、科学の発達が不十分な状況に規定されて、人間を体の諸パーツが機械的に組み合わさったものだといった、人間機械論のような主張がなされたりします。

重要なのは、人間を含む対象世界を歯車のように機械的に考えていたために、生物とか社会とかいった実際は有機性を持ったものが持つ、生成、発展、消滅、揚棄といった変化を説明できる理論体系をもたなかったことです。


ドイツ古典哲学と弁証法の発見

ヘーゲル

あらゆるものは、変化の中にある」というリアルな現実の反映の中から、機械論的な世界観への批判はカントからヘーゲルへのドイツ古典哲学の中で確立されていきます。

ギリシャ古典時代、あるいは仏教にみられる、あらゆるものは変化しているという、弁証法的世界観が生まれ、全ての哲学はそもそも絶対的ではなく、ある歴史過程の中で生まれてきた全体真理の部分認識にすぎないことが示されます。

ヘーゲル哲学においてこの認識過程が全て把握され、ヘーゲル哲学ですべてが集結する。そのように考えたかったヘーゲルの思いに反して、ヘーゲルの学説の魂である弁証法はそのヘーゲルの歴史的な限界を超えて、人間の認識は発展することを合理的だとする革命性を持ったものでした。

ヘーゲル哲学はヘーゲルの弁証法とそれに反する体系的なこれまでの哲学者文化の残滓(エンゲルスは弁髪と呼んでます)との間の対立は、ヘーゲル哲学を分裂させます。


ヘーゲルからマルクスへ

やがてヘーゲルの観念論を克服するという形で唯物論者であるフォイエルバッハを生み、さらにフォイエルバッハの機械的唯物論が廃棄してしまった弁証法を再評価して、マルクスが弁証法的唯物論とそれにもとづく歴史観、経済学、社会主義の理論が登場することになります。


マルクス

哲学は、もはや科学の発達と共にその神秘性を失い、究極の所、人間の精神が現実をとらえる法則、人間が物事を考える際の精神の運動を取り扱う科学へと、万能と思われた知の営みをおこなう瞑想世界から、究極にクリーニング(啓蒙)されることになります。

人間の科学は、我々の認識とは独立して存在する現実をリアルに分析し、法則を発見し、その真実性を実践を通じて確認する営為として、日々、人間の認識を現実に近づけることを課題にすることになります。

哲学は、精神の運動の科学として、オリンポスの山々から、緑豊かな大地に営まれる諸科学と対等な位置にまで、降りてくることになります。

まあ、だいたいですが、F.エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で言いたかったことはこんなことではないでしょうか。

M.ウェーバーの『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』よりも遥かに明快なので、一読をお勧めします。


こうして、時々哲学をちょっと考えてみると、現代に生きる私たちは、人間の認識の科学をさらにどのように発展させる課題を担っているのかを考える機会を与えてくれます。


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