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孤独を感じるのがイヤでインスタ辞めたけど別に友達がいないわけじゃない僕が思う「コミュ力とは何か」

本日はこちらの宿題に答えてみたいと思います。

相手は全くそんな気がないことは承知の上で、よく疎外感を抱いて勝手に傷ついてしまいます。自分が相手を思うほどは、相手は自分を好きでいてくれないような気になります。そんな自分がめんどくさくて嫌なのですが、上手く付き合っていく方法はないでしょうか?

めちゃくちゃわかるんですが何だこれ。お前は俺か。
しかも「相手は全くそんな気がないことは承知の上で」って、めっちゃよくわかってんじゃん。どこのどなたか存じませんが、俺より全然わかってる説あるよ。
「疎外されてるんですがどうしたらいいですか?」「疎外されないようにするにはどうしたらいいですか?」の段階よりずっと先にいると思うので、そう悲観せずゆったり構えればいいんじゃないかなという気はします。
ゆっくり焦らず、答えを見つけていきましょう。

……なんて、答えになってるようでなってないフワッとした回答で終わらせちゃいけませんね。
もう少しちゃんと踏み込みます。
なんとなく周りの人に比べて自分は独りだ、あまり必要とされていない気がする、なんて思って不安になりがちな方たちの参考になってくれればと思います。


大前提「別に嫌われてない」

繰り返しというか言い訳というかになりますが、「相手は全くそんな気がないのはわかってるけど、疎外されてるような気持ちになってしまう」って、本当にその通りなんですよね。
何がその通りって、ほとんどの人は積極的にあなたを仲間外れにしようだなんて思っていない
むしろ空気の読める人たちからすると逆なんじゃないかと思います。
つまり、彼らは「ああこの人はあんまり人とつるんだり、いつも一緒にいるのを好むタイプじゃないんだな」とこちらの本心を汲み取って、適度な距離感を保ってくれているのではないのでしょうか。穿ちすぎかもしれませんが。

相手にその気がない、というのをわかっていたら、あとはその辺りに気づいてしまいさえすれば、問題は万事解決なんじゃないかという気がするんですね。実にシンプル。
僕がとやかく言わなくても、あと数年すれば気持ちは勝手に落ち着いていくんじゃないか、と思うわけです。

とはいえ、その結論だけ切り取って伝えてもつまらないし、相談くださった方も、「ゆくゆくはそうなるとか言われても信用できねえよ!!」と不服にお思いになるかもしれない。
だから少し僕自身の話をします。


Stay Homeが気づかせてくれたこと

コロナ騒動で外出自粛やらサークル活動禁止やらがスタンダードになってしまったことで、僕の生活もそれなりに大きく変わりました。
週1回通っていたアカペラサークルの活動もすっかり停止し、飲み会もほとんどなくなりました。
緊急事態宣言解除後、リモートワークを終了して外のオフィスで働く日々が再開しましたが、基本的には寄り道せずに即帰宅、家で過ごすのが当たり前になっています。
本当に、人と会う機会が減りました。

そしてここが大事なのですが、僕は思った以上に、人と会わなくても全然大丈夫でした

いやもちろん、家に同居人がいて、話や物事の共有をできる相手に事欠かないという地盤があるからそう思えているのは確かです。
一人暮らしだったらもっと他人に飢えていたかもしれない。
でも、SNSで「誰かと会いたい〜〜早く遊びたい〜〜」と口にする人たちや、毎晩のようにオンライン飲み会で盛り上がっている人たちを目にするたびに、僕は不思議な気持ちになっていました。
そこまでしてみんな誰かと会ったり話したりしたいんだなぁと。
そして、どう考えても、自分はそうまでして誰かとつながっていたいとは思っていないことに気づいたのです。

しゃべったり人と遊んだりするのは楽しいし、好きです。
でもやっぱり気は遣うし、ひとしきり他人と何かをしたあとは正直とても疲れます。
それは仲の良さの度合いの問題じゃない。たぶん僕自身のパーソナリティの問題です。
僕はそもそも、生活において他人と「コミュ力でコミュニケーションする」時間が占める割合が大きくなりすぎるのを、本心としてあまり好んでないのだと思います。

コミュ力 ⊂ コミュニケーション能力

誤解しないでほしいのですが、僕は別に他人と関わらなくてもやっていけるとか、孤独に対して強いとか、そういうわけではまったくありません。
先にも言ったとおり、同居しているパートナーにはずいぶん助けられていますし、ときどき親しい友人と交流するのは僕にとって大なる楽しみです。
それに、コミュニケーションそのものを嫌っていたら、わざわざnoteで文章を公開したり、匿名の他人からお題を募集したりなんかしていないでしょう。

言ってみれば、僕にとって最もしっくりくるコミュニケーションのあり方は、いわゆる「コミュ力」を介したコミュニケーションとは違うんだと思います。

よく「コミュニケーション能力とは他人に物事を明解に伝えられ、合意に向けてやりとりしていける能力のことであって、ただ空気を読んで人とワイワイすることではなく……」みたいなことをせっせと語っているビジネス系記事なんかがありますが、これは定義を正しているわけではなく、「コミュニケーション能力」と「コミュ力」という別個のものを単に混同しているだけなのではないかと僕には思えます。
コミュ力という語はやはり実際のところ、他人と同調してバイブスを高め合い、ワイワイしていける力のことを指すのであって、広義のコミュニケーション能力とは次元が違う(いわば、コミュニケーション能力の中にコミュ力というカテゴリが含まれる)んじゃないでしょうか。
コミュ力がない、友達が少ない、自分は社会不適合なんじゃないか、なんて悩む人は少なくないですが、別にコミュニケーション能力が劣っているわけじゃなく、単に「コミュ力」的なコミュニケーションスタイルが合っていないだけなのだと思います。

昔は僕も少し無理をしてました。「コミュ力」が欲しい、「コミュ力」がないと友達ができない、と。
でも、「コミュ力」ってコミュニケーション能力の一つの表れでしかないし、それとは違うスタイルで他人や社会と関わっている人なんて、実はものすごくいっぱいいるんですよね。
「コミュ力」のある人は大学あたりではとても目立つけれど、目立つからマジョリティに見えるだけで、そうじゃない人もたくさんいる。
マジョリティでいるほうが所属する組織から得られるものは多くなるので、みんな焦ってマジョリティに自分を寄せていこうとしますが、それって言ってみれば「モテるために50メートル走を練習する小学生」とぶっちゃけ変わらないんです。おそらくのところ。

僕はようやくこの歳になって、「コミュ力」の呪縛から離れて、自分にしっくりくるコミュニケーションスタイルを見出しつつあります。
言葉は誤解のないようゆっくり積み重ねたいし、感情の摩擦やいさかいはなるべく無いようにしたい。
他にも、話題の選択やらスピード感やらについて、意識するしないにかかわらず思っていることはいろいろありますが、とにかくしっくりくるスタイルで人と関わるのはすごく楽です。
その気楽さに一度気づいてしまいさえすれば、にぎやかそうな他人の姿を見るたび疎外感を覚えるなんてことも、ぐっと減っていくんじゃないでしょうか。


おわりに

社会には面倒ごとも多いし、自分で食っていかなきゃいけないプレッシャーも存在します。
でも、学生時代とは違って、所属するコミュニティは好きに選べますし、コミュニティの多彩さも学校とは比べものになりません。
どこかでマジョリティとして通用しているスタイルが、別のどこかではマジョリティでも何でもないなんてことはごく当たり前です。
わざわざ自分を何かに寄せなくても、自分にしっくりくるところに身を置きさえすればある程度心地よく生きていけるのは、自由主義社会のいいところじゃないかと思います。

アートもネトゲもSNSも、言ってしまえばコミュニケーションツールです。
腐るほど多様なツールが存在しているのは、それだけコミュニケーションのあり方も多様でありうるからに他なりません。
ある場所で疎外感を覚えたなら、もっと違う場所に軸足を置きなおせばいい。
世界は僕らには想像もつかないほど広くて多様ですから、絶対どこかに一つくらい、息のしやすい場所はあるはずです。

答えになっていればこれ幸い、ということで今回はこのあたりで締めたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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