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やっぱり「プレミアム話し相手」で合ってたな、と思った

人から話を聞いて、話を聞かなければ知りようのなかった世界や、獲得しようのなかったものの見方にふれるのが好きで、「人の話を聞く活動」を細々とやっている。
名づけて「プレミアム話し相手」という。

名づけた当初は口に出すのが気恥ずかしく思われたこのちょっともっさりした名前にも、ずいぶん時間が経ってようやく慣れてきた。
そして、「この名前をつけたのも、ある種の必然性を感じたからこそだったんだな」と思うようになってきた。
いやもちろん、名前に慣れてきたことそれ自体が、そこに必然性なんてものを見出すしごく恣意的な目線をでっちあげさせたのかもしれないけれど。

とはいえ、ぼくがやろうとしてきた、そしてこれからもやろうとしていることに与えた名前として、「プレミアム話し相手」はなかなかぴったり合っていたんじゃないか、と今さら思いなおしているわけだ。
今日はそのことについてまとまった文章を書きたい。
ぼくが「プレミアム話し相手」というワードチョイスに、とりわけ「話し相手」という部分に、知らず知らずのうちに込めていた意図について。

「相談」でも「議論」でも「対話」でもなく

ぼくは別に、大した波乱万丈の人生を送ったきたわけでもないし、何か大きな物事を成し遂げたことがあるわけでもない、ごくごく平凡な人間である。
だから、「あなたの相談に乗ります!」なんておこがましいことは口が裂けても言えないと思っている。
「相談相手として」というガワを設定せず話をしたら結果として相談相手の役をぼくが担うかたちになってしまった、なんてことは幾度かあったかもしれないけれど、それも別に「ぼくが相談乗りますよ!! どうすか!!」みたいな仕掛けによってそうなったわけではなかった、はずである。

相談にかぎらず、「こういう目的をもって、こういうルールに則って言葉を交わし、こういう価値を出していきましょう」という形式ばったやりとりは、ぼくにとってはちょっと荷が重いし、心もあまり躍らない。
ついでに言うと、アグレッシブなコミュニケーションも好きじゃない。できることならなるべく避けたい。
そういうことをやらざるを得ない場面はあるし、それが役に立つ場ことも時にはあると思うけれど、単に日常の楽しみとして、そして継続していく活動としてやっていく以上、もっとラフで縛られないものがいい。
もちろん「ラフにいけ、縛りを捨てろ!」みたいな勢いで大原則を押し通してしまうとそれはそれで本末転倒なので、そこも含めて柔軟にやっていきたいと常日頃思っているわけなのだけれど。

そんなわけだから、「相談」でも「議論」でも「対話」でもその他もろもろでもない「話す」を選んだことは、今にしてみてもぼくの望むところを最も的確に表した選択だったと思える。
なるべく無色透明な、目的にも意味にも形式にもとらわれない「話す」をやっていきたい。
場当たり的で行き着くあてもわからない会話の中で、思いがけない何か(それは時に、言葉を口にしたその人にとってさえ思いがけないものだったりする)を見出し、その発見が得られたことそのものの悦びを共有し、与えられた時間いっぱいの中でエネルギーを消尽した感覚に至りたい。
必ずしもすべての会話がそのように進んでいくとも限らないし、それはまったく構わないのだけれど、とはいえ自分にとって最も喜ばしい瞬間の一つは、時間も目的もそっちのけで目の前の相手とのやりとりに没頭し、相手の声音や言葉のテンポ(オフラインであれば、加えて表情などの非言語的なサインも)から相手もまた自分と同じように没入感めいたものを感じていると伝わってくるときだ。

ぼくは自分のことを、話術に長けた人間だとか、人心を読み解く力にすぐれた人間だというふうには思っていない。
話を聞くことに関して何かしら特殊な勉強をしたわけでも、ましてや専門的な訓練を経たわけでもない。
ただぼくは極力ひたむきに、目の前の相手に自分を開き、相手が投げかけてくる言葉やそれ以外のものを、受け止め飲み下し消化し吸収しようとしているだけだ。
そして自分が望むものを手にするためのスタンスとしては、それで十分だと今は思っている。

「相手」として臨むということ

世の中にはあらゆる種類の「すごい人」がいるもので、その中にはぼくが心底うらやましいと感じるような人もたくさんいる。
逆立ちしたってあんなことはできない、一回や二回生まれ変わったくらいじゃあんなこと思いつきもできない、とぼくが思うようなことを、呼吸するようにして思考し、ふるまいとして表出している人が星の数ほどいるのだ(これは誰にとってもそうだろうと思うのだけれど)。

それで、ぼくが「うらやましい」と感じる人たちの一種として、「アグレッシブなコミュニケーションができる人」というのを挙げることができる。
アグレッシブさというものを一言で言い切ることはたぶん難しくて、そこには「自分から手を進めること」「グイグイ行くこと」「ともすれば攻撃的とも映る押しの強さがあること」「熱っぽいこと」といった多彩なニュアンスが含まれていると思うのだけれど、そういうタイプのコミュニケーションをうまくやってのけられる人というのは、ぼくの目には実にうらやましい、いわば「青々とした隣の芝」として映るわけだ。

要するに、ぼくには「アグレッシブな態度でコミュニケーションに臨む性質」が備わっていない。
初対面の人に自ら進んで声をかけることなんてよほど勢いを得ていないとできないし、会話の中で自分の意見や思想を開陳するなんて、向こうから求められないかぎりほとんどしたいと思えない。

そしてその反面、ぼくが比較的苦労なくやれるのは「パッシブ」な、つまり「受け」のコミュニケーションだ。
口火を切って他方へと働きかける役割は向こうに担ってもらい、ぼくはそれを受け止め飲み込み自分なりに消化して返す。
これまでの人生の歩みの中で積み重ねられてきたものによって、ぼくの性質はそちら側、つまり「受け」へと望む望まざるにかかわらず結晶しており、それを最大化させていくのが当面のビジョンとして最適でナチュラルなのだろう、と今は考えている。

そう、だからぼくは基本的にやはり「相手」なのだ。
少なくとも自分にとっては、そうあるのが最も気楽で自然だ。
「相手」という立場は「主」に対する「客」のようなものであって、投げかけや働きかけを起点として行う人物があって初めて成り立つ。
その点、ぼくは自分が「主」となる人間だとは考えられない(やれないことはないけど、肩の力を抜いてやることはできない)。
逆に投げかけや働きかけを受け止めることをきっかけとして機能を発揮する「受け」、つまり「相手」的ポジションが性に合っているな、と今さらになって(自分のことというのは本当にわからないものだなと思う)納得しているのだ。

「話し相手」という表現を選んだとき、自分がこういうことを意識のレベルで考えていたとは、正直なところ思わない。
けれど、今にして思えば「話し」もさること「相手」の部分がきわめて的確に自分にとってナチュラルなあり方を写しとっていたと思うし、そんなことを知らず知らずやってのけていたのだと思うと、自分というものの底知れなさを感じずにはおれなくなる。

ペコよりスマイルが好きだった

こじつけかもしれないけれど、昔から主人公よりはその隣にいる脇役に親近感を覚えてきた。
金曜ロードショーか何かでやっていた実写映画の『ピンポン』を初めて見たとき、窪塚洋介演じる主人公のペコよりも、井浦新が役を務めたスマイルのほうに強く心を惹かれたのをよく覚えている。

どんなものを投げてこられても、受け、咀嚼し、飲み下し、消化したい。
そこで得られた固有のエネルギーをもって、相手の攻めを煽り立て、形や価値にしばられたやりとりでは至れない熱にあふれた交流へと登りつめていきたい。
それがぼくがプレミアム「話し相手」というネーミングに知ってか知らずか込めていた願いだったのかな、という気がする。

まぁ、そんなに気合入れてなくても、楽しく話せればなんでもいいんですけどね。本当に。


ということでプレミアム話し相手、お話しにきてくれる方を随時募集しています。
ご連絡お待ちしております。


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