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三重跳びなんてできたって仕方ないかもしれないけど、今はまだ縄を跳んでいたい

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たった1回だけれど、人生で初めて三重跳びに成功した。

僕は今年度で30歳になる無職の男である。
いろいろあって会社に勤めるのが嫌になって、何もせずぷらぷらしていたら早くも半年以上の時間が経ってしまった。
最近は人と話すことと縄跳びにハマっている。

今日はものの試しに三重跳びに挑戦してみた。
そうしたら、1回だけではあるけれど跳べてしまった。


気が向いた日、一日30分くらい縄を跳ぶ。
縄跳びは楽しい。
小学生の頃から縄跳びはずいぶん好きだったけれど、あの頃の気持ちを思い出しつつも、当時と今との差を感じることもある。
こんなに考えながら昔は跳んでなかったな、考えなくても跳びつづけていられたのはすごいことだけれどそれがまた「考える」という行為の位置づけを照らし出してくれるような気もするな、ということを思いながら、僕は縄を跳んでいる。

着々と上達している。
成長している。
自分の中の変化にすぎないけれど、変化の起きていることは確かに感じている。
「後ろに縄を回すときの手首の回り方がなめらかになってきた」
「縄をクロスさせるときの上半身の寄せ方がつかめてきた」
「跳んでいて少しずつ足が疲れなくなってきた」……
言語化できる範囲内でも、数え上げればそれなりにいろいろ出てくる。

楽しいものだ、縄を跳ぶのは。
前よりも少し跳べるようになった自分に気づくのも楽しい。
小学生の頃のようには動かない体を跳ねさせては息を荒げ、夕方とはいえまだまだ熱気に満ちた路地のすみでだらだら汗を流し、ときどき吹く風に体を冷やされているとき、エネルギーが適切に費消されていく心地よさを感じる。
汗まみれになった服を脱ぎ捨て、冷たいシャワーを浴びたあと、送風機が外から運んでくる涼しい夜風を潤った体に当てているとき、僕は体の内側から薄汚れた澱みのようなものがすっかり取り去られていることを実感できる。

縄を跳ぶのは、確かに楽しい。
楽しいはずだ。
たぶん。
おそらく。
きっと。


これが「楽しい」なのだとすれば。


……。


ときどき自信がなくなってしまう。


「楽しいこと」をやるたびに、人生を逆行しているような気持ちになる。


縄跳び。
テトリス。
新しい習いごと。
夜の散歩。
猫とのじゃれあい。
友達との長電話。

子供っぽいことばっかりだ、と自分で自分をたしなめる声が聞こえてくる気がする。
僕はそれを力ずくで突っぱねて、「楽しいこと」の一つ一つを骨までしゃぶり尽くそうとしている。
今はそれでいいはずだ、それでいいはずなんだ、と言い聞かせながら。


「子供っぽいことばかりやれているのは、大人をやっている人たちがたくさんいるからだよな」と思うことはよくある。
甘やかしているよな、自分を、とも。

でもしょうがないじゃないか、とも思う。
体は大人になったけど、僕は全然うまく「大人」をできない。
やろうとしてもうまくいかなかったのだ。
だから僕は社会人6年目にして会社勤めを辞めた。

やろうと思えばできる、という人もいるかもしれないし、僕の中にもその気持ちがまったくないわけでもない。
でも、「やろうと思う」というのはその字面ほど簡単なことじゃないし、うまく「やろうと思う」ための心構えみたいなものが、僕の中にはずいぶん足りていないのだ。

縄を跳ぶのはその心構えを培うためか、と言われれば決してそんなことはない。
そんなつもりでは断じてやっていない。
結果として何が起こるかなんてわからないじゃないか、と思う。
すべてがろくでもない方向に転がるかもしれないし、あるいはまったく想像だにしなかった形の喜ばしい何かが待っているかもしれない。

ただ、何が起こるかはまったくわからないけれど、とにかく「うまくできもしない『大人の真似』をしつづける」よりはマシなところもあるだろうと思った。
なるべく意味や目標をもたず、シンプルな「楽しい」や「心地よい」を手がかりに掘り進めるというあり方は、僕が人生の中で長らく度外視してきたオプションだ。
選んでみるのは悪くないと思った。
今までの経験から言って敗色濃厚な戦いに懲りずに挑んでいくより、手つかずの可能性に賭けていくほうが、正直言って挑む身としては気乗りする。

そして何より、いま僕の周りにいる「楽しいことばかりを突き詰めて生きている人たち」は、揃いも揃ってけっこういい顔をして生きているのだ。


ぶっちゃけた話、僕はそんなに頭がよくない。
要領よく生きるための計算もはたらかせられないし、人生について堅い理念をもちつづけることもできない。
頭でっかちでうまくいく人もいるのだろうけど、あいにく僕はそういう人種じゃない(ことが最近ちょっとわかってきた)。

だから、今は少し考えるのをやめて、「考えない」を積み重ねたい。
どうせ僕のことだから、必要があればまた「考える」をやるだろう。
それまではいいじゃないか、別に。
どうせ人間死ぬんだから、生きているあいだに試せる可能性は試させてほしい。


そんなわけで、当分は少し涼しい日には縄を跳びます。跳ぶと思います。
あと、できるだけたくさんの人とおしゃべりをしたいです。
いつ飽きるかわかりませんが、飽きるまではやりたいと思っています。

おしゃべりしてくれる人は、ぜひご連絡をくださいませ。


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