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真実に半透明の嘘を被せる  #私の執筆スタンス

昨日以前の過去も、今も、そして未来もきっとエッセイを書いています。

それは真実や実際起こったことの中から見つけ出した【人が生きていく上での真理】を書いていきたいから。

真理とは、いつの時代も、どこの場所でも、変わらない普遍的な観念のこと。

幼い頃から移りゆく環境にいたこともあり、そういうものを見つけ出そうとする癖が付いております。そして、それを見つけ出すことを細やかな楽しみとして日々を過ごしております。

自分の身に起こったことをただ書きたいのではないのです。そこから見つけ出したものが何であるのか。それを自分の有意識の先、無意識の海まで潜って見つけ出す。それを文章という形で表層まで押し上げて見える形に整え、読んでくださる方(読み手)に渡す。どうですかと、言葉を介さない会話がしたい。

なので、実際に起きたことや、真実に関する描写はそこまで重要でないとも考えています。

そこで見つけ出した【人が生きていく上での真理】だけが嘘偽りなく、一ミリもたがわず書かれ、描写され、くっきりと細部まで映されていればそれでいい。そのためには時に、真実は強すぎると感じています。実際に起きたことには「人に有無を言わせない強さ」があるからです。私もよく、口論しているときに相手を「だって本当のことでしょ?」で追い詰め、逃げ道を奪いすぎて弱らせすぎてしまうことがあり、しまった、と後悔します。

あと、真実にはどうしても公の場所で書けないことが多い。私も家族のことなどはほとんど書いてはいけない状態にあります。

そのため、時に真実には半透明の嘘を被せます。全ては隠さないけれど、真理よりも目立つことのないように、強すぎないように、誰かを追い詰めないように、背景にいるたくさんの人々を傷つけることなんてないように。

真実から見つけ出したことだけを書いているのにと矛盾を感じる読み手の方もいるかもしれない。ただ、公の場で書いている以上、どのように書いたら一番書きたいものが浮かび上がるか、そして、書いていけないことはどれなのかを考えるのは、どんなに購読数の少ない端くれの書き手であってもとても重要なことだと思っております。


どなたが書いた文章でも同じです。その言葉たちは、その人の頭の中だけにいる。一文字、一行、コツコツと書く。書き上げても削ったり、足したり。小説でも、エッセイでも、散文でも、コラムでも、出来上がった文章は色んな方法で読み手に会いに行って、寄り添う。言葉の積み重ねが読み手の人に会えたとき、それが一つの景色になります。やはり、書くことは幸福です。

これからも、一つでも多く人生の真理を見つけ、書いていきたい。他の書き手の方々の文章からもそれを見つけていきたい。そして、声を介さず、そのことについてお話したいです、ぜひとも。






今回もこちらのお題に応えての文章となりました。

書こうかなと考え始めたときから多くの発見があったので、だいすーけさんありがとうございます。




いつもありがとうございます。 頂いたサポートは、半分は新たなインプットに、半分は本当に素晴らしいNOTEを書くクリエイターさんへのサポートという形で循環させて頂いています。