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『自分の身体を生きる』ことが出来ない(『私の身体を生きる』)

『私の身体を生きる』文藝春秋

元々、エッセイを読むのが苦手だ。作品(小説)が好きというのは、作者を好きなことと必ずしもイコールではない。"人となり"を知ってしまうと、作品を読んでいるときの雑音になってしまう気がする。視点主のモノローグであるはずなのに、(これは作者の思考の切れ端なんだろうか)という疑問を挟む余地を敢えて作り上げたくはない。

作品と作者は別。
とは言っても作者がいなければ作品は存在しない以上、小説という意作品は作者の子供だといっても過言ではないのだから、そこに影響を見出すなという方が土台無理な話である。

だからまだ全てを読み切れてはいない。これは単なる前置きと言う名の言い訳だ。故にリレーエッセイだということも、全く気づかなかった。一つだけこの記述は村田沙耶香さんを指しているのでは?と思ったところはあったけれど、(ああ、お二人は友人なのだな)と安直にスルーしてしまっていた。

痛々しいと言い切るのも余りにも雑だが、抑圧された性によって歪んでしまったものの一端を見た気がした。自分の体なのに自分のものだと自信を持って言うことが出来ないのは、自分の人生なのに自分の人生だと胸を張ることが出来ないことと少し似ている。これがこういうことなんだ、と後にならないと自覚できないことも含めて、だ。

私はノンバイナリーでパンセクシュアルだが、それに気付いたのはもう三十代も半ばを過ぎた辺りだった。青木志貴さんという声優さんが、自身のYoutubeチャンネルで「自分自身の性自認は男です」と説明している動画を見て初めて「自分の性自認は本当に女なのだろうか?」と疑問を持つことができ、それによって漸く自分は女でもなければ男でもない。中性或いは無性という状態に近いと、気付いたのである。

そうすると私は私の身体を生きてはいなかった。ノンバイナリーである以上、『私の身体を生きる』とは趣を異なってしまうが、折角なので自身も参加しているつもりでよしなしごとを書き連ねてみようと思う。全ての人間が同じ覚悟、同じ熱量で挑んだ上でのエッセイでないにしても、ここまで性について、身体について詳らかにすることはとても勇気の要ることだろうから、それに触発されてみたいのだ。

元々、理解の難しいことが幾つか存在していた。例えば、病に罹ってしまって乳房や子宮を切除することになり、病におかされたことだけではなく女性としての身体の一部を失ってしまうことを深く嘆き悲しむこと。私が読んだ数少ない小説の中だと山本文緒さんの『プラナリア』が少し近い所にあるように思う。

「私生まれ変わるならプラナリアになりたいんです」

本当に伝えたいことは別にあると思うが、それでも"がんなので"ではなく"乳がんなので"と春香が言うのには、少なからず理由があるように思う。女性としてあるべきものが、あるべき形で存在していない自身を、あるがままに受け止めて欲しいという渇望、そして癒えることのない喪失感が彼女を無気力、無感動にして捻くれさせてしまうのではないだろうか。

しかしながら、そう推察してはみても自分は春香には感情移入ができない。どこか他人事のように大変だなと眺めてしまうだけだし、恐らくだが自分が同じ病に罹ったとしても同じような反応はしない気がしている。それが、性自認や年齢だけの違いなのかどうかはわからないが、春香自身も恋人に望まれるがまま、断る理由がないからとセックスを受け入れてしまっている以上、自分の身体を生きられていない女性の一人であるように思う。

以前SNSで性別違和により胸を切除する手術をした方のレポートを読んだことがある。

https://twitter.com/kunktkun/status/1665575101021016066

自分自身の身体にメスを入れるというのは大変なことだと改めて思いながらも、どこか「いいなぁ」と羨ましく感じる自分もいた。自身の胸の大きさに興味も関心もなく、思い入れもない。ただ、視界には映る上にこれがある以上、上にティシャツを一枚羽織っただけでは外に出ることが叶わず、不便なだけだ。

もう十年も前、年下の男性の恋人と付き合っていた時期がある。彼はことあるごとにあたかも偶然かのように装いながら、私の胸に肘や腕で何度も触れてくるのが、非常に不愉快だったことを覚えている。人前であるにもかかわらず性的なことをすることにも、私に断りもなく胸に触れることに対しても、両方に対して不快を覚えていたが、それを私が口に出すことはなかったが、あれがまさしく自分の身体なのに自分のものじゃないという感覚に近いのだろう。

現代日本において、異性の恋人や伴侶を作るという行為は、女性にとっては心を預けるとか人生を託すと言うよりも、身体を所有させるという感覚に近いのかも知れない。男性の浮気は仕方のないことだと許されるのに、女性の特に肉体的な浮気にかんしては許されざる愚行であるというイメージが拭いきれないのは、彼女あるいは妻の身体は彼氏、または夫のものであるという無意識下のすりこみがあるからではないのか。だとすればなんともグロテスクであるとしか言いようがない。

それに気づかないどころか、何の違和感も抱かず受け入れてしまっていた過去の自分にも吐き気を催す。しかしながら日本にとってはまだそれが当たり前の範疇にあるのだ。だから性被害が軽視されがちなのだろう。

(どうせいつか女性は男に"所有される"のだから)少しくらい触ったり、味見したりしてもいいじゃないか、という慢心が抜けきらないのではないか。自分の身体"さえも"自由に扱うことが出来ない女性の心情、或いは矜持などは完全に視野外である。

だから本来男であれば女を所有出来るはずなのに、フェミニズムなんて下らない思想にかまけている女たちのせいで、(女を所有できるという)自由を奪われ、男としての尊厳を踏み躙られているんだという被害者意識のもと、女性に対して執拗に憎悪を燃やす男性が後を絶たないのではないだろうか?

西村紗知さんの『女は見えない』など、題名そのものが真理を物語っている。

見えない女は自分の身体の所有権すら持てず、明文化しうるような自我を保つことが難しい。性自認が女性ではない私でさえ、自分の身体をきちんと所有できているとは言えないままだったし、それに気づくことも出来ていなかった。

日本において女性は若ければ若いほど意味もなく持て囃され、それ故にどんどんと自分の身体の所有がどこにあるのかがあやふやになっていってしまうし、自ら所有権を譲り渡すことさえ珍しいことではない。グラビアアイドルの何人かが「水着なんて着たくなかった」と意思表示をしても、「俺だって仕事なんてしたくなかったよ」という見当違いのアンサーを返される時代である。

個人的に男女平等などというのは、男女の違いを根本的に理解しあえないのなら成立しないものだと思っているが、せめて自分の身体を生きる権利くらいは皆平等に得て生きて欲しいと願うばかりだ。


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