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「何もしない」 その理由を考える。


だいすけです。


今回は「こども孫子の兵法」より
子どもと話をすると言うより
自身が感じることが大きかった。


僕は合意なく子どもを連れ去られ、
別居を強いられたことにより別居親となる。


多くの連れ去られ当事者と話をする中で、
連れ去った相手に対しての怒りは相当なものだ。



「怒りはないの?」



と聞かれれば、即答で「ある!」だ。


確かに率先的に争うタイプではないけれど、
前職で派閥争いの中心にいたりと
おっとりと言うわけではない…


ただ、僕は子ども中心に思考を持っていき、
あえて、妻の事は考えないようにしている。

その答えがここに記載されている様な気がした。



「争いはいつも危険とセット
 危険を負う覚悟と大きな価値がなければ、
 むやみに争ってはいけないよ」



日本における親権のシステムエラー
子どもの視点より大人都合重視の親。
それを商売とする離婚弁護士。
前例主義で判決に強制力のない司法。


そんな日本の異様な社会において、
連れ去られた側が「争う」ことは
本当に勝ち目の少ない戦いなのだ。


そんな中で僕は子どもと毎週会っている。



この状況下、争いにより勝ち取る
「大きな価値」とはなんだろうか?


争いによる「危険」とはなんだろうか?



整理してみる。


勝ち得たい大きな価値

・子どもの意思による自由な親子(面会)交流
・子どもの養育における発言
・実生活における金銭的不平等の是正


危険

・妻都合による親子断絶



ここから考慮しても、危険因子の影響は大きい。
なぜなら、僕だけの問題ではない。
子どもの気持ちにも影響が出るからだ。


大きな価値について、
自由な交流は、むしろ土日以外での実現は
仕事をしている以上は、最適とは言いづらい。

実際振り返ると、結果的には、
毎週土日、子どもと過ごせている。
ただ、そこに至るまでの時間の延長や
お泊まり中止の阻止は子どもの強い意志による。

不安定なのは僕自身の心配からくるもの。


ただ共同養育の主体は子どもと考えれば
僕の子ども達は安定している。

そして、妻は子どもの意志をねじ曲げずに
ほぼ汲んであげれているのも事実。


では、後者2つの因子についてはどうか?
親子断絶リスクに比するものだろうか?
(そもそも親子断絶が起きる社会がおかしい)
実質、養育における発言が出来ない分、
学校や病院等の養育は全て妻が担っているのだ。
そこに伴う苦労は僕にはない。


となると、必然的に僕が争う事で
勝ち取れるかもしれない価値は
大きいとは言えないかもしれない。


今、僕も妻も弁護士はついている。
「勝ち負け」が仕事でもある弁護士を
実質的に機能させない形で、


「何もしない」


をあえて選択している。



いつまでもこの状態が続くとは思わない。


ただ、子どもを主に考えれば、
この選択はありなのだと思っている。

そして、「こども孫子の兵法」からも
それを改めて気付かせてくれた。


このnoteを書き始め半年が過ぎた頃から
不安と向き合うよりも、
今の状態を如何に前向きに捉えられるか?
そこにエネルギーを注ぐようにしている。


妻が子どもより自分の気持ちを優先することなく
共同養育が実施出来る状態が続いて欲しい。

---

最後まで読んで頂きありがとうございました。


「子どもの権利」
意識したことありますか?


難しく考える事ないと思います。
当たり前の事。


「パパからもママからも愛されたい」


無力な子ども達が求める
子どもの権利のひとつ。

日本はこの当たり前の子どもの気持ちを
大人都合で押し潰してしまう。

連れ去りや離婚による「(事実上の)親子断絶」
子どもへの「虐待」

とにかく大人都合だらけで
大人の立場や解釈が優先されます。


この問題にそろそろ日本の多くの人は
気付き、声をだしていかなければ、
一番の不幸は・・・子どもです。


#離婚 #共同養育 #子育て #いま私にできること #子どもに教えられたこと

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