川崎情動
京浜東北線に乗り、窓際に凭れて激しく切り替わっていく背景をぼんやりと視野に入れておく。
「好き」と「興味がない」の二枚しか手元にない私は、電車の窓越しの一面性だけでも、一度も訪れたことがないような街を躊躇せずに好きだと思える。
スクランブル交差点は渋谷の所有物ではない。
JRの改札から放り出されて川崎駅を突き進むと、ロータリー付近の一車線を無理なく流すために信号が置かれている。白線から飛び出せないはずなのに、数秒後には人が行き来して白線を踏みつける。
銀柳街を歩きながら、居心地の良さと気味悪さを同時に味わう。チェーン店がきれいに汚く並べられている。
不快感を快楽と錯覚することはよくあるらしいのだ。理論的な部分はわからないけど。
良くも悪くも、強く矢印がどこかに向かって進むだけでも、「興味がない」に支配されつつあるせいで、高揚感を抱いた部分もある。
案内と標識がどこにも見当たらなくても、歩道は左に寄って歩くのがマナーらしいが、人の流れに規則性を見出すには難しすぎる。誰の心の中も見えてこないのに、理解した気になって間違える。理解しようと顔を合わせること自体が怖いとすら思えてくる。対人恐怖症とは一緒なのか違うのか、怖くて調べられない。
合っているか、違っているか。
これも二枚しか用意されていない。興味がなくても正誤は存在する。どうでもいいことすらもはいといいえがある。
もっと多い手札で戦えたら。
もっと場を展開して広く関わっていられたら。
たらればから生まれる負の感情をつまみに、一思いにジャスミン茶を飲んだ。
どうせならブラックコーヒーの苦さを選んでおくべきだった。
ふかい森をただ抜けた先には、チネチッタ通りの明るさが眩しく写る。
14時を迎えて、噴水から朗らかな音楽とともに水が飛び出る。演出を加えても映画にできそうにない奔放な心の揺れ動きは、奇しくも映画のようだった。
自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。