いろんな役を降板して、見えてきたもの。
わたしはずっと
「中途半端な自分」が嫌いだった。
一時は肩書きというものに憧れを持ち
必ずや冠付きで名前を呼ばれる日がくるようにと
がむしゃらに努力していた。
でも特に仕事では、行く先々で
いまこのひとが1番必要としているものは何だろう
このひとはわたしが何をしたら喜ぶだろう
いまこのひとは何に困っているんだろう
ということに常に脳をフル回転させ、
「その場に最も足りない役割」を埋める存在を、無意識のうちに買って出ていた。
いまから思えば、わたしの人生はずっとその繰り返しだったし
いまから思えば、それはわたしのHSP気質(場の空気を読む力が強く、それを放っておけない)も少なからず影響していた。
チームの雰囲気がわるい。
→わたしが少しバカなふりをして場を温めればよさそうかな。
みんな楽しそうにお喋りしている。
→お酒とおつまみ減ってきたから補充しに行こうっと。
あのひとさっきから楽しくなさそうな顔してる。
→さっきの会議が原因かも。お菓子食べつつ1個あげて「さっきの意見よかったよ」って伝えよう。
※→以降の思考が言語化しないうちに、気づいた時点でだいたいいつも体が先に動き始めていた。
組織で求められるモノは常に形を変えるから
わたしはいわばカメレオン俳優のように
(それが面と向かって頼まれた役割かどうかに関わらず)
必要だと思えばヌルッと引き受けていた。
それが自分の最も嫌っていた
「中途半端な自分」を作ることになるとも知らずに。
仕事では主任やらマネージャーやら広報担当やらEAやら、さまざまな「役」を同時に担い、場面によって使い分けるようになって
さらに結婚したことで、妻、既婚者、そして嫁という「役」が増えた。
自分のチームに入った後輩の教育担当になり、メンター、上長という「役」も回ってきた。
会社のイベントでは率先して誰よりも楽しそうに振る舞い、ハロウィンにはノリノリで仮装もした。
(元々その会社にはハロウィンの風習はなかったし、たぶんわたしがやろうと言わなければ誰もやらなかった)
いろんな「役」になり、がむしゃらに突き進んできたけれど
だんだんと自分が自分でない感覚・違和感が生まれ始めた。
いつものように頭が働かない。
いままでの自分では考えられないミスが見つかる。
時を同じくして、夫婦としての関係性に違和感を感じていた結婚生活というものにピリオドを打つことになった。
長く一緒にいた相手と別れるためのドライな各種手続きをこなす中で、
何かが弾けた。
仕事も
家庭も
それをうまく回そうとしていた自分も
何もかもダメになっていく。
どうにかしようと足掻いても、まともに頭が働かない。
自分が壊れていくことが、ただただ怖かった。
長く勤めた会社は休職満了で退職し、
離婚して元の姓に戻った。
わたしは、
〇〇会社の人でも、広報担当でも、EAでも、会社のムードメーカーでも
妻でも、嫁でも、既婚者でもなくなった。
それまで抱えていた
ありとあらゆる、すべての「役」を降板した。
いま、わたしは自分でも驚くくらい
「何者でもない」。
中途半端が嫌で、ずっと何者かになりたかったわたしは、最終的に「何者でもない」自分になった。
いろんな「役」をやれたこと自体にいまでも後悔はないし、ある意味でいい経験だった。
でも1つだけ気づいたことがある。
わたしは少なくとも
自分が望む人生を生きてはいなかった。
求められることが、ニーズのあることが
人生のすべてだと思い込んでいた。
ビジネスないし資本主義社会においていえば
ニーズのないものは淘汰される(マネタイズできない)のでそれはある種正解なのだけれど
ひとの幸せはお金を稼ぐことだけで得られる訳ではないし、ビジネスとそれ以外の部分とで得られる幸せの割合は、ひとによって違うのだ。
もちろんひとさまの権利を侵害したり
己の倫理に反した行動はしないほうがよいとは思うけれど
自分が自分の思うように生きること。
世の中の大半のひとが良いと思う生き方が、必ずしも自分の生き方とイコールである必要はないということ。
そして
無理して何者かにならなくても、
じゅうぶん人は生きていけるということ。
わたしは人生の中で重要な学びを得た。
あともう少しだけ、
「何者でもない」わたしを楽しんでいたい。
中途半端でも、いいんだよ。
何者かになる必要なんて、ないんだよ。
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