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【歴史】数分で理解できる、幕末明治の福岡藩

<黒田家の興亡は👇👇>

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 いまいち人気も派手さもない、福岡藩。彼らが幕末に何をしたのか、超簡単に解説します。

「数分で理解できる、幕末明治の福岡藩」

 そう題しましたが、あくまで幕末明治の流れを理解した上での事なので、あしからず。
 また、今回は大まかな「流れ」にフォーカスし、細かい流れや人物紹介はいずれ書くので、ご容赦をお願いします。

 さて幕末福岡藩を理解する上で抑えて欲しいのが、決して福岡藩が無気力な藩ではなかった事。
 常にアグレッシブに、維新のメインストリームを歩いていました。
 長州の助命、薩長に福岡を含めた外様連合を画策、提唱した事。そして、それが第一次長州征伐での解兵や五卿動座の実現に繋がった事。しかも、それは佐幕・勤王関わらず挙藩一致で、藩是として行った事。
 少なくとも、福岡藩が幕末の動乱に対してアクティブに活動したという事はわかって欲しいと思います。

 まず、何故に挙藩一致なのか?
 佐幕と勤王の垣根を超えて、動けた理由は何なのか?
 それは簡単で、佐幕も勤王も「長州の助命」と「外様連合」という目的の利害が一致しているから。

<佐幕党の主張>
 外様が連合して幕府を支え、平和的に近代化したい。 その為には、長州と戦争してはならない。内戦は外国を利するだけ。

<勤王党の主張>
 幕府に意見を言えるよう、外様雄藩が連合すべきで、勤王の先駆けたる長州を潰してはならない。

 以上の様に「長州の助命」と「外様連合」という奇妙な一致点があり、打算によって手を結んだ両者ですが、そこで黒田長溥が登場します。

黒田長溥

 彼は島津の出身で、父親は島津重豪。「幕末後期の怪物」の息子です。それと同時に、あの島津斉彬の大叔父にもあたります。
 父に勝るほど蘭癖な彼の方針は、全国一和。内戦を回避し、挙藩一致で近代化しようとするものでした。
 つまり、彼は佐幕党のトップ。長溥は(勤王など世迷言と思いながらも)勤王党と手を組んで、長州助命と薩長同盟を進めていきます。

長溥を中心にした相関図

 そこで働いたのが、筑前勤王党と俗に呼ばれる加藤司書の正義党、月形洗蔵の月形グループ(名称が無い為に、郷土史界隈ではこう呼ばれています)。更には、長溥に見出された喜多岡勇平牧市内瀧田紫城ら。中でも喜多岡勇平は勤王の志士ながら、その秀才ぶりが長溥に愛され縦横無尽の活躍をします。一方、加藤司書は藩内で月形グループは長州や京都方面で活動し、福岡藩は確かに維新のメインストリームを歩んでいました。

加藤司書

 しかし、呉越同舟な福岡藩の歯車は狂い始めます。
 長溥はあくまで全国一和。内戦回避と幕府を中心とした近代化の為に運動していました。勤王など、毛頭ありません。しかし勤王党は、長溥の目が届かぬ所で独自の行動を開始。つまり、本来の目的の為に牙を剥いたのです。
 ただでさえ、勤王党に対して不安感を抱いていた長溥は、憎々しげにその様子を眺めます。藩内では勤王党が権力を掌握し、時勢もそれを後押ししていたからです。
 そうした中、苦虫を噛む長溥に、信じられない急報が舞い込みます。

 長溥が可愛がっていた牧市内、続いて喜多岡勇平が暗殺されたのです。
 牧は潮干狩りの帰りに、喜多岡は就寝中に殺害されました。特に喜多岡は勤王党にも人望がありましたが、佐幕党に寝返ったと疑われた末の内ゲバでした。
 喜多岡の暗殺は、月形グループの過激派による仕業で、この暗殺は佐幕党のみならず勤王党からも非難されます。
 喜多岡こそ、福岡藩で一番の切れ者だったと思います。彼こそ生きていれば――と、僕は思っています。

 こうした暗殺が続き、長溥は勤王党の切り捨てを考えるようになります。長溥にとって、勤王党は「全国一和」実現の為の道具なのですから、当然の事でしょう。しかも、彼は平和を志向する人でした。長溥にとって、勤王党は過激派以外の何物でもなかったと思います。
 長溥や冷や飯を食べていた佐幕党は虎視眈々とその機会を狙っていましたが、そのチャンスはすぐに訪れます。

 と、その前に……

 福岡藩には犬鳴別館という要塞が山間部にありました。これは加藤司書が築城したもので、海岸から近い福岡城が敵艦隊の砲撃に晒される可能性を考慮し、いざという時に藩主を匿う目的で築かれました。

さて――。

 正義党の一員である衣非茂記が、ある日失言してしまいます。

「いざとなったら長溥を犬鳴別館に押し込んで、息子の長知を藩主にし、藩政を掌握すればいい」

 酒の席で。しかも、黒田家一門相手に。つまり、勤王党内にクーデター計画があると暴露してしまったのです!

 加藤司書も月形洗蔵も、寝耳に水だったでしょう。勤王党の中には、クーデターを企む人もいたでしょうが、衣非にしてみては酒の席の冗談だったと思います。
 しかし、それが長溥の耳に入ると、とうとう勤王党潰しが始まります。加藤や月形などが捕縛され投獄。そして切腹。これが、俗に言う「犬鳴別館事件」「乙丑の獄」のはじまりです。

 長溥は、平和を乱す勤王党を粛清し、福岡藩は佐幕政権になります。
 しかし、まもなく大政奉還からの、戊辰戦争突入。福岡藩からは、慌ててかき集めた2617名が従軍(うち死者57名)

 さすがに藩主が勤王党弾圧の責任取れないので、佐幕党の面々が切腹する羽目になります。

 そんな佐幕党の辞世の句がこちら。

<野村東馬>
君が為 すつる命は 今更に
おしとおもはじ 大和真心
享年 29

<浦上信儂>
死出の山 越ゆるも君の 為ならば
心いさめる もののふの道
享年 45

<久野将監>
数ならぬ 我身のいのち 此国の
代りとなりて 果るうれしさ
享年 56

 これにて、勤王政権が復活。しかし悲劇はまだまだ続きます。
 福岡藩が莫大な量の偽札を作っている事が新政府にバレてしまうのです。偽札偽造自体は、福岡藩だけではありません。しかし、額が大き過ぎたのです。政府は調査の結果、責任者に切腹を命令。そこで腹を切ったのが、偽札に関わっていない面々でした。更に追い打ちを掛けるように、福岡で前代未聞の大一揆が発生。政府が布告した徴兵令・解放令に反対した一揆で、筑前竹槍一揆といいます。
 この事件で誰も責任を取ろうとしなかったので、八代利征が切腹しました。

八代利征

 悲しい歴史はまだまだ続きます。

 維新の動乱で完全燃焼してなかった志士や、勤王派の二世が西南戦争に呼応して福岡で挙兵。「福岡の変」の勃発です。
 しかし、結果は惨敗。勤王派の子らは、親同様斬首されました。

尾崎臻、山中立木、穂波半太郎、村上彦十、武部小四郎

 こうして、近世から近代になった福岡。
 黒田長溥は勤王党を粛清した事を後悔し、人材育成に精を出します。そこで、育ったのが金子堅太郎団琢磨栗野慎一郎明石元二郎たち。
彼らは日本の発展に尽力し、日露戦争で日本を救います。

金子堅太郎、団琢磨、栗野慎一郎

 勿論、在にあって国を変えようと燃える者もいます。そんな若者が反骨心ありありの若者が集まって結成されたのが、玄洋社。
 明治から昭和にかけての自由民権運動をけん引しました。

玄洋社

 以上、これが超簡単な福岡藩の幕末明治です。
 お分かりいただけたでしょうか??
 これからも折を見て、福岡藩について色々と書きたいと思います。

 ただ一つ覚えて下さい。
 福岡藩は、必死に生きたと。

<参考文献>
新訂黒田家譜
新訂黒田家譜索引・家譜年表
物語福岡藩史/安川巌
筑前西郡史/由比章祐
悲劇の藩主黒田長溥/柳猛直
加藤司書の周辺―筑前藩・乙丑の獄始末/成松正隆
福岡地方史研究
安政期福岡藩における西洋軍法の導入と抵抗/梶原良則
黒田長溥の「功罪」と明治維新/力武豊隆

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