見出し画像

カフカは桑の葉を思う③

朝になった。部屋にあった葉は大方食べつくしたようだ。床には桑の枝の部分だけがむき出しになって転がっていた。飢えと渇きが僕を襲っていたが、命のかかった事態に僕の心は研ぎ澄まされていた。扉の正面辺り、部屋の奥の方に陣取ると僕はドアが開く音をひたすら待った。

静かに、ドアの開く音がした。声は聞こえないが、息が静かに震えているようだ。僕は半身を持ち上げると、ゆっくりとお辞儀をするような動作をした。それはいつの日か二人で練習したお辞儀の姿勢だった。当時の上肢に姿勢の悪さを指摘されて、家で数日間二人で練習したんだ。曲げる角度とか動きの速さとか、戻る時の姿勢とか、色々と。二人で工夫して上手なお辞儀の仕方ってヤツを研究した。お陰で上司は僕等の努力を褒めてくれた。酒の席だけどあの厳しかった上司が、奥さんのこと大事にしろって、マジメな顔で言ってくれたんだ。帰って奥さんに話したら、良かったねって喜んでくれた。スゴく嬉しかった僕らの思い出だ。この姿ですべてが再現できる訳ではない。でも他に伝えるすべなどなかった。僕は必至で何度も何度も、ゆっくりとお辞儀を繰り返した。

遠くで、嗚咽おえつのような、泣き出すような声が聞こえた。そして足音が、遠ざかって行った。泣かせてしまった…気づいて、くれたのだろうか。きっときづいたから、泣いたのだろう。僕の変わり果てた姿を受け入れられないのだろう。でも、できる事はやった。僕は僕であることを何とか伝えられたという自信が嬉しかった。と、飢えと渇きが再びやってきた。今が一番桑の葉が必要な時期なのだ。この数日、葉っぱがなければ僕の命は尽きるのだろう。仕方のない事かもしれない。その先を知らずにいれて良いのかもしれない。やるだけの事はやったのだ。僕は自分を勇気づけるように、そう何度も繰り返した。

どのくらいの時間が経ったのだろう。しばらくして、遠くで静かにドアの開く音がした。

声は聞こえないが、青い葉の匂いがした。部屋の床には大量の採れたての桑の葉が蒔かれていた。
「食べて…」
静かに言う声がした。
僕はもう一度身を起こすと、何度かあのお辞儀の姿勢を繰り返した。そして夢中になって葉に食いついた。休むことなく顎が動いているのが分かった。口の中が再び甘い抹茶のような味で満ちていた。


↓参考資料です。

(タイトル画は伊丹市昆虫館HPより)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?