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僕の未来予想図④

小さな頃から、作り笑いが得意だった。今にして思えば、自分が生き抜くために覚えたすべだったのだと思う。笑いたくて笑うのではない。自分の感情を抑えるのに必死だった。そして相手の感情を理解するのも大変だった。

生まれ育った家庭は裕福だったと思う。オモチャでも服でも、多分モノなら何でもあったんだと思う。ただ愛情だけが、そこにはなかった。あったのは歪んだ愛情だけだった。父親を名乗った人は頭が良く、日々の努力を怠らないヒトだった。社会では認められていたようで、立派な役職を名乗っていた。一方で他人の感情には理解も共感もなく、ただ淡々と応対するだけだった。日々の暮らしの中で、彼は母だったヒトにも同様の扱いをしていた。そして僕が気づいた頃には、彼女は既に心を病んでいた。感情を押し殺した、表情とともに感情の変化を嫌う物静かなヒトになっていた。

モノゴコロついた頃には、僕は同じ価値観を求められるようになった。友達と遊ぶことの意味、価値は何か?努力を怠る理由は何か?彼には子どもらしく遊ぶことの意義が何も理解できなかった。毎日責められ、追い詰められる中で、僕はいつしか無理に作った笑顔を見せるようになった。それが苦しみから逃れ、解放される一の手段だと思っていた。

息が詰まるような小学校生活の末、僕は有名な中高一貫の進学校へと進んだ。思春期になって、僕は思ったよりもずっと世界が広く開けていることを知った。仲間らしき友人の存在が、この世界の矛盾を指摘してくれた。僕のいた世界の狭さや間違いに気づかせてくれて、戦う勇気をくれたのだ。暴力に自信はなかったが、僕は己の自我を取り戻すために必死だった。彼も自分の存在意義を守るために同様に必死になった。お互いに妥協することなく、力のぶつかり合いは日々激しさを増した。僕の身体の傷は周囲の注目を集めるようになり、やがて警察署や児童相談所の職員が頻繁に家に訪れるようになった。彼はあくまでも毅然とした態度で応戦し、決して主張を曲げることはなかった。家族で良く相談してください、そう言われたところで僕にどうしろと言うのだろうか?

そうした日々が過ぎる中で、いつしか救いの手は絶望にすら感じられ、僕はココロがすり減って弱っていくのを日に日に感じていた。この頃から僕は度々浴槽に頭を沈められるようになった。散々水を飲まされた後で、土下座して許しを乞えと強要された。このままではココロが死んでしまう…疲れ切った僕は台所の刃物に手をかけた。救急車やパトカーのサイレンや眩しい光、大声で騒ぐ近所の住民の声やその恐怖に歪んだ顔、思い出せるのはそんなことだけだ。解放された喜びと安心感が何ものにも代えがたかった。しばらく施設に収容され、法律上も解放されて自由になった僕には、どこにも居場所はなかった。そして無為に街をうろつき、数日してここの工場に行きついたのだ。

空腹で倒れそうな僕を見たカネさんの第一声は、「捨てイヌみたいだな」だった。その手には温かい握り飯があった。


(イラスト ふうちゃんさん)


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