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理想の恋人(ヒト)⑫


当初の予定よりも随分と長い文章になってしましました。近い未来に渦巻く不安を具現化したこのお話ですが、結末を見届けて頂き、ありがとうございます。皆さまに微かな希望の光を見い出して頂けるような、そんな最後を用意しました。

彼が再生していく姿をご覧ください

理想の恋人ヒト、贈ります つづきです。…


僕にとって嵐のような時間が、嵐のように過ぎていった。冷静に考えれば僕には失ったものの方が大きいと、きっとそう言われてしまうのだろう。でも今の僕にはそんな陳腐な喪失感よりも、永美を守れなかった挫折と敗北感、後悔の念の方が遙かに強かった。競わず争わず、平穏無事に生きることを良しとして生きてきたこの僕に、初めて生きる意味とか生き甲斐とか、人生の意義を教えてくれた永美はもういない、その事実だけが抜け殻のような僕を絶え間なく苦しめていた。

貯金がないとか、逮捕拘留されたとか、社会的なマイナスイメージを心配する周囲の声とは全く逆に、僕にはそんなことはどうでも良い些細な事象でしかなかった。僕は今、こうして生きている。でも僕は今、ただの抜け殻だ。この事実を噛みしめることこそが、今の僕に求められる社会的責任なのだろう。甘んじて受け入れよう、そう思いながら僕は、この夕暮れの川沿いの道を歩いていた。ようやく外に出られるようになり、日差しや風を感じられるようにもなってきた。同じ思いを繰り返しながらも、僕は未来に向かって少しずつだが歩みを進めているのかもしれない。それは先の見えない未来、不安な未来だが、手を引かれるかのように、僕はこうして夕暮れの川沿いに来ていた。

思えば滑稽な世の中だ。必死に働いて、脇目も振らずに無我夢中に頑張って多少の社会的地位を手に入れ、その代償として大切な家族との関係を見失った哀れな団塊の世代。その反動でゆとりを重視したはずが無気力なままに日々を生きることを良しとした若年層。そのどちらも僕には受け入れない価値観の人々だ。人は情熱のまま生きることこそが美しく、情熱のまま生きることこそが生きる意味を見つける手段なのだ。僕が見いだした人生の答えは、きっとこんなカタチなのだろう。

歩き疲れて、道ばたの草むらに座り込んで、夕焼け空を呆けて見つめる。ただそれだけの時間。以前の僕にはその価値すらも分からなかった。でも今なら言えるんだ。情熱や感性の根源はヒトと自然の中にあって、僕らは大抵そうとは気づかないままに生きている。永美は僕に夕陽の美しさも、夕焼け空の儚さも、風がそよぐ肌の感覚も、すべて教えてくれた。永美は世間で言われるような愛玩人形ラブドールなどではなかった。僕にはかけがえのない、迷える子羊のような僕を支えて導いてくれた水先案内人のような存在だったのだ。

夕の風はまだ冷たいが、待ちわびる春の香りを運んでくるような気がした。心が落ち着くにつれて、僕には以前の記憶が徐々に戻りつつあるようだ。あの日の記憶も、一時は何も思い出せないくらいだったが、今は永美の言葉遣いまで、少しずつでも鮮明に思い出せるようになっていた。


…あの日、朝早くに玄関に人の気配があって、何やらただならぬ雰囲気になった。何かを悟ったように、永美は僕に言ったんだ。
「ひとりでも強く生きて、大丈夫だから。私はきっと、そばにいるから。」
事態が呑み込めないまま、僕はどういうことなのか永美に聞いた。でも永美は何も教えてはくれなかった。ただ僕の方をじっと見て、静かに言葉を続けたんだ。
「私はもうすぐいなくなるの。二度と会えなくなるの。でも安心して、私の心はちゃんとそばにあるから。いつかきっと、届くように頑張るから。私はきっと、永遠の命なんだ。だから何があっても心配しないで。そばにはいられないけど、ずっと思ってる。大好きだよ。」

永美は別れ際、僕にそう言ってくれた。弱かった僕に最大限の愛情を注いでくれた。機械とかAI人形ラブドールとか、心ない人達の中傷がどれだけ僕を傷つけようと、僕の本心は何も揺らがない。僕は永美が信じてくれた僕の人生を全うするだけだ。記憶が戻って、涙がとめどなく溢れてきた。永美との日々を懐かしみ、別れを悲しむ涙でもあったが、それよりも僕には永美の言葉を取り戻したことが嬉しかった。人には信じられる人がいればそれだけで良いんだと、僕はそう実感した。

我に返ったように意識が現実世界へと戻ってきた。川沿いの景色は相変わらずの色合いだった。すぐそばにいた親子連れが小さなボールで遊んでいて、母親が幼い子どもに話しかけていた。
「こうちゃん、ダメよ。他のヒトに当たったらどうするの?」
幼子の心意気は無邪気で力強い。
「大丈夫だよ。ボク平気だから。ホラ!」
そう言ってその左手から放たれたボールは、小さな放物線を描いて僕の頭上に落ちてきた。

「あの、大変申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
母親の申し訳なさそうな言葉に、僕は精一杯の笑顔で応えた。
「大丈夫。全然大丈夫ですよ。それより、コラ、危ないじゃないか。」
そう言って僕は立ち上がって、子どもにボールを返すとその澄んだ目を見つめて話しかけた。幼子は一瞬何があったのか理解できなかったようだが、すこし間をおいてから全てを察したかのように、はしゃいだ叫び声を上げて逃げ出した。
「コラ、待て、待て。」
僕は川沿いの道を、夕陽を浴びながら子どもを追いかけた。傾いた夕陽は僕と親子を照らし出し、長い影を地面に届けていた。



(イラスト ふうちゃんさん)

                                                                                                         

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