終わってしまうからこそ、
今はもう、終わってしまったものに、すごく惹かれてしまう。
縄文時代の女性たちがしていたアクセサリーとか、イギリスの貴族に仕えたメイドとか、大正時代の女学生同士の、手紙のやりとりとか。
今はもう、目の前で見れないもの。
たぶんそれは、春に行った谷川俊太郎展も、一緒だ。
もうとっくのとうに終わってしまったから、もう見ることはできない。だからかな、見ることができなくなってしまったから、谷川俊太郎の言葉が、色褪せるというよりはむしろ、色濃くなってゆく。
谷川俊太郎の詩を初めてちゃんと意識した、つまり出会ったのは、受験生のころだ。
私は帰国入試だったので、受験のメインは小論文だった。当然、書くことだけじゃなくて読むことも求められた。私は予備校からの推奨図書リストを片っ端から読んでいって、あるとき『普通がいいという病』という本に出会う。
この本もとても良書なので別のところでまた紹介したいのだけれど、本書で谷川俊太郎の『20億光年の孤独』が紹介されていたのだ。
孤独が人を引きつけあう、万有引力となる。シンプルな言葉なのに、そこにはなぜか強烈なリズム、みたいなのがあって、その本を読んだあと何年も、印象に残っていた(この本自体も何回も読み返したのだけれど)。
谷川俊太郎展にまず入ると、出会うのは、詩を全身で感じる空間だ。真っ暗ななかに電光パネルがいくつもならび、詩に合わせて、ひらがなが画面に浮かんでは消え、浮かんでは消える。ネオンな色と、詩を読み上げる声も。
ああそうだ、詩って、黙読する、つまりだけじゃなくて、耳で、色で、文字のふるえで、全身で感じるものなんだ。
真っ暗な空間で、浮かんでは消えるひらがなを見つめつつ、その詩を聞いていると、今まで私は詩をほんとうの意味では味わってなかったんだなあと思う。目だけじゃない、もっと、からだ全体を使って、感じとる、そんな言葉の音楽たち。
私にとって詩は、小説に比べてあまり読まないジャンルだけれど、それは、黙読してたからなんだ。音にして、色にして、かたちにして、こんなに詩が輝き出すなんて。知らなかった私の世界は、今思えばきっと、モノクロだった。
そんなことさえ、思ってしまうような。
ああ、詩や、短歌が読みたい。その言葉の世界を、自分のリズムと色で、鮮やかに縁取ってみたい。
そんな欲望を抱かされた、展覧会だった。
それでは、また。
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