見出し画像

【固定観念が人生を左右する】銭湯で出会ったある男の子と人間の幸せについて


ここまで銭湯で出会った男の子から人生、幸せ、固定観念、社会について
回想する人は他にはいないであろう、30歳男のコラム。

銭湯の水風呂にいた、〇〇がない男の子



今日行った銭湯での出来事。
私はサウナに入った後、水風呂に浸かっていた。

そこに、6歳くらいの男の子が来て、水風呂の2段ある段差の上で仰向けで大の字になった。そして首の後ろを段差の2段目に乗せた後、口だけを残し、頭を水の中へ潜らせ、しばらく口をブクブクし始めた。

大事なあそこにタオルもかけることなく、自分のやりたいことに全力で、雑念ひとつなくブクブクに夢中になっていた。個人的には今まで銭湯にきた中で、かなり異様な光景の上位に食い込む光景だった。

初見で私は、
「恥ずかしくないのかな、まぁ子供だからしょうがないか…」と思っていた。

2、3分後にスタッフさんが心配して「大丈夫か!?」と苦笑いで声をかけ、お腹をポンポンした。男の子はむくっと起き上がり、「大丈夫です」と言い、別に恥ずかしがることもなく、ぼーとしている。

ここで私は「・・・あ、違う、この子には思い込み、固定観念がないんだ」と思ったのだ。

半年くらい前にはなるが、「神様とのおしゃべり」という本の中に、
「感情が動く時、人には思い込み、固定観念がある」と書かれていて、それが私にはかなり刺さった。

私も含めて、周りにいた大人の多くは、
あの子をみて、自分と同じように思った人が多いと予想する。
中には「恥もしらん子供やな、親の顔が見たいわい」と愚痴を言いたくなる人もいたかもしれない。

でもこうとも考えられる。
あの子には
「立派な人間でなければならないという思い込み、固定観念がないのだ」と。

本能に基づく幸せのカタチ

少し話はそれるが、人間の目的は本能的にいうと、「子孫を残すこと」だと、「利己的な遺伝子」という本には書いてある。

人は成長するに従い、大人や社会から、将来のためだと言われて、やりたい事を我慢して、勉強し、大学に入り、次は立派な会社に入れと就職活動をし、就職した後も立派な社会人として、活躍、奮闘し続けないといけない。



現代において、子孫を残し、育てるには、先程の流れのように、いい大学に入り、立派な社会人として、稼いで、結婚して、家族を作り、子供を養っていくルートを辿らなければかなり実現が難しい。これは男性に限らず、今の時代は多少、女性にも当てはまるだろう。

最近ではフリーランス、ユーチューバーなど会社に縛られない生き方をする人が増えたのも事実だが、現実はまだまだ先ほどのルートを歩いていこうとする人が多いだろう。

だが、果たしてこの生き方が幸せだと言い切れるだろうか?
人間を生物学的に見た場合、先ほど言った子孫を残すという本能的な目的は達成されている。つまり生物学的には幸せである。

だが子育てが終わり、定年を迎えて退職した後、老後が始まり、その時を迎えた時、全員が幸せだと言えるだろうか・・・否言えないだろう。

またまた本の話になるが、最近読んだ本「やりがいのある仕事」の中で、定年を迎えてから、ふと人生を振り返り、虚しくなる男の方の話が書いてあり、著者は人の幸せのカタチは、これというものはなく、人それぞれ違うのではないかというような事を言っていた。

戦後の日本は、敗戦国として復興していく中で、満足にご飯が食える状況ではなかったから、物の豊かさ=幸せという図式が成り立っていた。

しかし独立を果たし、アメリカにつぐ経済大国にまで復興を成し遂げた後は、物が周りにあるのは当たり前で、1日3食、ご飯も食べれるようになり、餓死で亡くなるという方はほぼいない社会になった。

これまで物の豊かさが幸せの基準であったがために、それが実現している社会に突入すると、何が幸せの基準になるかという価値観が多様化していった。

では先ほど言った道のりがダメなのかというと、そうとは言えなくて、例えばいい大学に入れなければ、期待していた周りからは、とやかく言われて、学歴コンプレックスを持ち、自信をなくしてしまうかもしれない。

そしていい会社に就職できなくて、低い収入だと会社や友達、家族含めて、周りからの評価は下がり、自信が無くなる。かつて付き合っていた友達は、社会人として立派に仕事をし、収入を得ているからと、彼らと比較してしまい、会いづらくなるということも起きる。

そしてそのせいで恋愛、結婚も難しくなり、家庭も持てず、生涯未婚、孤独に暮らしていく可能性も高まる。なので社会的に成功する道のりに乗れるか選ぶなら、それに乗ったほうがいいかもしれない。

ではなぜ、物の豊かさを享受し、社会の成功ルートに乗ってきたのに、ふと虚しさを感じてしまうのだろうか?


社会的成功の代償

ここからは個人的な意見になるが、おそらく「自分が心からやりたいことを我慢して生きてきた」または「社会のルートに乗ること、社会に生きる一人の人間として立派になることを優先しすぎた結果、今、やりたいことが分からない」からなのではないかと私は思う。

仕事もやりつつ、並行して自分のしたいことも実現している人であれば、いつの時点でも人生を振り返った時に、虚しくなるということはないのではないかもしれないが、多くの人はそうではないだろう。

先ほどの話は、老後の男の人の例だが、別に学生でもいい。
卒業や合格に向けて、やりたいことをやる時間を削り、または考える暇もなく、勉強をしながら、ふと帰り道に一人になったときに、言葉がぼんやり浮かんでくる。
これが正しいことなのか?
これは俺がやりたいことなのか?と。

だが、そんなことを考えたところで問題が複雑なので、考えることをやめて、遊びほうけている学生を小馬鹿にしつつ、また社会のレールに乗る選択を取る。

一応このレールに乗っていれば、不幸になることはなさそうだとなんとなく、ぼんやり決めつけて、また勉強に戻る。多くの学生がこんな感じだと思う。少なくとも私はそう思いこませながら?学生時代は過ごしていた。

思い込ませるというよりかは、漠然とした問題すぎて、考えることがしんどい作業になるし、まわりも同じだから大丈夫だと考えていた、の方が正しいのかもしれない。

中には学生の時からもう将来の夢とか職業を決めていて、それを達成するためには、この大学に入らないといけないからと、ちゃんと逆算して行動してる子もいるだろう。

でも自分の経験上、そんな子は本当に珍しいと思っている。事実、同級生でちゃんと夢があって勉強していた子は数人レベルだった。

虚しい社会のレール



大多数がとりあえず勉強して、社会のレールに乗らないと、なんとなくヤバい感じがするからとか、勉強しないと親から怒られるというような漠然とした、消極的な理由だと思う。

(ちなみに私のnoteでは、脳科学や心理学についても書いているので、ちょっと解説する。マズローの5段階欲求の生存・安心欲求的に、勉強しないと怒る親の元で、なかば強制的に勉強する子は、ちゃんと親の言う事を聞かないと、親は自分の保護・子育てを放棄するかもしれない、家から追い出されるかもしれないと脳が判断し、そうなる可能性があるのであれば、親の言う事を聞いておいた方が寝床も確保でき、食事も出てるので、死んでしまうよりかは良いと脳が本能的に判断していると、私は解釈している。


もし学生の時点で自分で独り立ちして、生活していけるような経済力、スキルがあれば、親に反抗することに躊躇はしないかもしれない。あと生存欲求についてだが、ベストセラーになっている本、「ストレス脳」でも、脳は生き延びることを最優先にして行動していると述べている。この本はかなり面白かったし、為になるので読むのにオススメです。)

そうして、大学に入り、少し遊んだ後でまた、立派な社会人になるため、とりあえず就職先を何でもいいから決める。
そしてこの時にも一部の学生は、漠然とした不安や虚しさと共に、こう思うだろう。「これで良いのだろうか。」
しかし、またこの声をかき消して、社会のレールに乗り続ける。これが正しいのだと自分に言い聞かせて。


そして働き始め、色々社内での業務、人間関係にストレスをためつつも、お給料は入るから、立派な社会人へのステップを踏み出した実感を得る。

それからしばらく経ち、相変わらず金曜日の仕事終わりは居酒屋で酒を飲みすぎて、家に帰り、風呂も入らずそのまま寝床につく。

そして朝起きた時にまた一部の人はこう思うだろう。
「この虚しい感じはなんだ…?」「俺はこれでいいのか?」と。
そして、また考えるのがしんどくなって、その声をかき消して、二度寝する。

ここから、昇進して、結婚して、子供が生まれて、子供が巣立っていくなかで、また一部の人は虚しさを感じる人もいるだろう。だんだん書いていて、私が虚しくなってきたので、それぞれのシーンを書くことはこの辺で止めておく。

自由VS社会

ここまで長々と書いてきたが、要は「自分のやりたいこと、夢、目標を見つけて、行動しないと、虚しい人生を送る可能性が、今の時代はとくに高い」と私は考えている。


そしてここで銭湯の男の子の話に戻る。
あの男の子をみて、「恥ずかしい」とか「みっともない」と思うのは、私たち大人が自分自身を「社会人として立派でなければらならない」という思い込みがあると私は考えた。


確かに公衆浴場で、全員があの男の子と同じようにやっていたら、それはそれでカオスというか、ざっくり言うと社会が成り立たない。
ただここで大事なのは、あの男の子は「自分のやりたいことを我慢せずにやっていた」という所がポイントになる。

「人として立派に振る舞わなければならない」「社会のルールに従わなければならない」という観念があの子にあったならば、あの行動はしなかっただろう。そしてこれから先、その観念を持ち続けたならば、社会のレールに乗って、成功できる立派な大人になり、生物学的な幸せを得れる可能性は高い。

しかしあの子にはそういった固定観念、思い込みみたいなものがほとんど無いように見えた。スタッフの人から心配されて声をかけられた時は恥ずかしがる様子が全然なかったし、周りを気にする必要がなく、ぼーとしていた。

もしあの子が「人として立派に振る舞わなければならない」「社会のルールに従わなければならない」という観念、思い込みを持たずに「自分がやりたいことは、我慢せずにやる」というスタンスを取り続けたとしたら、いつ人生を振り返っても悔いのない人生を送っていますと胸を張って言えるのではないかと思う。

先程から書いてきた、社会のレールに乗るというのは、私はある種、人間の「子孫を残す」という最大の本能的、生物学的な目的のためには、やむを得ないのではないかと思ったりもする。つまり、社会のレールに乗るというのは、本能的なものだということ。

そしてその為には、自分のやりたいことを我慢せずにやって目的を達成できないなら、自分のやりたいことは我慢して、本能的な目的(子孫を残す目的)を達成したほうが、はるかに良いと脳は判断しているのかもしれない、なんてことも思ったりもする。

固定観念は人を幸せにするのか

ここまで色々書いてきて、私なら男の子のように生きたいと思う。しかし多くの人は、社会的に立派になることを良しとする観念の元、人生を送る。そしてそれは本能的、生物学的な幸せを考えると正しいと言えると、先程から述べてきた。


しかし、この社会的に立派になることを良しとする観念というのは、私たちから自由を奪ったり、行動を制限させる要因の一つになる。

本能的な目的の為、社会で立派な大人になることを優先し、自分のやりたいこと、夢、目標を諦めたり、我慢してやらずに人生を送るか、はたまた、立派にならなければならないという観念、価値観、生き方を捨てて、自分のやりたいことを実現することを優先するか、どちらが正しいか、幸せかというのは誰にも判断できない。なぜならどちらにもメリット、デメリットがあるからだ。

ただどちらも実現するのが本当は理想形だろう。世の中にはどちらも実現している人がいるので、理想はこうだと思う。

ただどちらかを選べと言われれば、私はあの男の子の生き方を選びたい。
社会的な成功、幸せを手に入れても、自分の幸せとはイコールにならないのは、私としては避けたい。あの男の子の生き方のほうが私は楽しい、価値があると思っているからだ。もちろん他人には迷惑のかけない範囲で。

最近ある勉強会に参加した時に、人生のゴールが悲しい・虚しい場合、今も虚しく・悲しくなるので、最後のゴールの幸せのカタチを先に決めると、今も幸せになる、とある経営者の方が言っていて、この話に通ずるところがあると思った。

かなり長々と書いてきた。
銭湯に行くまでは、まさかここまでの内容になるとは全く思っていなかった。
ただ最近noteで書くことは、自分のプライベートは一切ない、まじめな内容だったので、たまにはこんな感じの記事もいいかと思い、書いてみたが、もし自分に子供ができたら、いつかは読んでもらいたいと思える結局まじめ?な記事にはなった。

色んな方に読んでいただけると嬉しい。

もし気が向いたら、
他の記事も読んで頂けると嬉しいです。
最近、まじめに書いてる割には、反応が少なくて、モチベーションが下がりつつあるので。(^_^;)

ではでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?