見出し画像

『生き甲斐』あってこその、『命』。・・・冷静沈着且つ強気だった父の、初めての弱気発言。

 本日は、私事で申し訳ないが、『生き甲斐』について語りたいと思う。

 『生き甲斐』とは、生きている価値や張り合い、生きることへの喜びを意味する。

 テレビのインタビューを観ていると、「貴方の『生き甲斐』は何ですか?」とリポーターが尋ねている場面がある。

 昭和時代の人間であれば、「仕事ですかね!?」と答える人は多いのではなかろうか。今の時代では、「何だろ?わかんない!」と答える人もいるだろう。

 『生き甲斐』とは、或る事物に集中して遣り遂げる心であったり、自分の目的達成のために、日々努力を惜しまず突き進む信念であったり。

 父は、戦前は大東亜省(戦前の拓務省が、大東亜省・内務省・外務省に分かれた時期)に入省。戦後は『法曹界』へ進み、退官後に某銀行顧問を70歳まで務め、その後は自治会会長を80歳まで、そして86歳で他界した。

 標題の『生き甲斐』と言うものを考えていた時に、近い血族の人間、すなわち、実父の言葉を思い出したのだった。

 父は戦争を体験した文官であった訳だが、正義感と負けん気、遣る気は並外れていた。筆者が直接、父の若い頃を直視できるはずもないので、本人やその知人友人から聞かされた内容を縫合して、自分なりに解釈している。

 当時、『法曹界』においては、社会正義一本で仕事に傾注していたと推察するが、仕事柄、原付免許は取得しているものの、車の運転免許を取得したのは、退官後のことだった。理由は、万が一、事故を起こしてはならぬという、庁内の慣例が存在していたようだ。

 息子として、父を思い出しては、遠目に見ていると、『仕事』はご飯より大好きだった。趣味としては『剣道』、『ゴルフ』、『魚釣り』であり、退官後に免許を取得して、初めて運転する『車』は楽しさいっぱいのビークル(乗り物)だったに違いない。

 他界するまでは、医者要らずの『健康老人』。一度、高台にある自宅の外階段(28段)で転び、肋骨数本?にヒビが入ったと言って、自分で包帯と湿布を大量に買い込み、ぐるぐる巻きにして、自己治癒力全開で治している。

 ここで、やっと本題に入れるのだが、そういった人間が、或る日突然、「近頃、『生き甲斐』が無くなった。」とボソッと呟いたのである。これも推量の域を脱し得ないが、早くに他界した母が一番の『生き甲斐』だったようなので、瞬間的に何となく理解ができた。

 結構、息子に対しては期待感も何も無く、『放任主義』であった為に、『生き甲斐』とは違う視点にて見ていたに違いない。下手すると、「出来の悪いガキなので、さっさと出て行ってくれ!」と思っていた可能性が高い。

 ただ、そのような弱気な発言を父から直接聞いたことが無かったので、妙に胸騒ぎがしたのである。案の定、その弱気発言から2ヶ月後に、『命』の電池が切れてしまった。

 父の生き様は、太平洋戦争という『暗黒の時代』を挟んでいるので、波瀾万丈であったに違いない。戦後になってやっと平穏無事なる生活を送りつつも、仕事に『生き甲斐』を抱き、最愛の妻に『生き甲斐』を求め、最終的には、孤独感に苛まれたのか、『生き甲斐』を無くしてしまった。

 遺言書には、筆者への感謝の辞もあり有り難かったが、母の急死が相当ショックだったように読み取れる。元気だった頃の母が「転勤も2年、3年に1回あるから大変ですよ!」と言えば、父は「転勤は長期旅行と思えば、楽しいものだ!」と切り返す。

 『法曹界』では、社会正義の為に自らの尻を叩いて国に奉公したようなものだが、或る意味、自分の家庭を犠牲にして、退官後、やっと自分らしい『生き甲斐』に辿り着いたのかも知れないと感じたのである。

 しかし、「『生き甲斐』が無くなった!」という弱気発言は、もしかすると、体のどこかに異変が生じ、既に、自分の死期を悟っての最後の言葉だったのかも知れない。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。