見出し画像

不要な記憶との戦い・・・

 これは筆者個人の話であり、ご興味のない方は無視されて、さっさと次のエッセイへお進み頂ければと。

 実は、筆者の場合、いかなることも映像として記憶が残り、脳内の記憶の箱に刻まれるのだが、善きも悪しきも残ってしまい、その記憶の箱から消したくても消えない現象が起こる。

 それも記憶する価値のないものほど、記憶の箱の溝に詰まって残ってしまう。勿論、他のことが頭に浮かんだり、人の話に耳を傾けていない場合(集中度が高い時)は、全く耳に入らず、記憶の箱は空っぽだ。

 最近思うことは、ネガティブな情報は二度の過ちを防ぐ特効薬として役立つけれども、あまりにもネガティブなものが記憶の箱に多く残っていると、ふとしたことで、脳内で急に覆い被さってくることがある。

 トラウマほどのものではないにしろ、脳内の記憶の箱に入れるには価値がないと分かっているけれども、抹消しようにも消えないのである。よって、不要な記憶が、思考回路をしばしば邪魔をすることもある。

 脳内の記憶の箱がカートリッジ式であれば非常に助かるが、アナログ人間の良いところでもあり悪いところであり、生身であるが故に、SDカードやXQDカードのように取り替えできないところが辛い。

 ネガティブな記憶について自己分析をすると、他者の言葉(失言)で気になったものが、延々と消えない。他者に聞けば、言った覚えはないと知らぬ存ぜぬを貫くが、録音機で録音したかのように、その言葉を覚えている。

 幼い頃からの記憶を辿れば、3歳頃からの記憶は鮮明に覚えている。例えば、幼稚園の園長先生に無理を言って、途中から入園した日では、園長先生と両親の会話をしっかりと記憶している。結局、そのカトリック系の幼稚園には、最長滞在記録保持者として、3年と4ヶ月ほどお世話になった。

 幼稚園の中央にある大木に登って何を歌っていたとか、裏庭の胡桃をいつも拾って遊んだりとか、カメラのフィルム缶の蓋で同級生が右足の親指付け根を怪我したとか、まだ3歳児だったが、総天然色(フルカラー=1677万色)は無理だが、モノクロームの映像が浮かんでくる。

 毎日同園へ通う途中に、小学校のグラウンドを突っ切り、民家の塀と塀の間の細道がダウンスロープとなっており、そこを駆け降りて、右折して100mほどで到着するまでの、当時のたばこ屋さんや裁判所門柱、検察庁、印刷会社、駄菓子屋など、走馬灯のように頭を巡る。

 このようにポジティブな記憶であれば、今エッセイを書きながらでも、次から次へと沸いて楽しいが、これがネガティブだと、段々と重い気持ちになり、あの時はああすれば云々と、「タラ・レバ」ばかりを発してしまう。

 幼稚園の手前右手は従兄弟の実家があり、そこで最初に覚えたのが、時計の時間の読み方であった。6歳年上の従兄弟が親から時刻を尋ねられると、柱時計を見て、自信たっぷりに何時と答えるのを見て、すこぶる歯痒い思いをしていた。

 そこで、幼稚園の帰り際に叔母の家に立ち寄り、叔母に頼んで、柱時計を凝視しながら長針と短針の動きと時間について何度も説明を聞いた。首が痛くあんるほど柱時計を見上げていたが、ようやく時計の時間を読めるようになった。

 それから自宅に駆け足で戻り、犬猿の仲であった祖父母と時計の時間の読み方を披露し、満面の笑みとなり、夕食も忘れて、2階の自分の部屋に戻り、大の字になって爆睡したのであった。

 今回は、個人的な内容で大変申し訳ないが、筆者の3歳児の頃をエッセイとして書かせてもらった。思い出そうとすれば、まだまだ面白いエピソードが沢山ある。しかし、純朴ながらも攻撃的な性格の自分の姿を思い起こせば、赤面するしかない。

 いやはや、自我に目覚める前の3歳児は、祖父母と対峙の関係を築いていたので、祖父母からすれば、出来の悪い、聞き分けのない、手に負えぬ悪ガキだと思っていたに違いない。


▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、記憶とその持続性に焦点を当てており、特に望ましくない記憶がどのように心理的に影響を与えるかを探求しています。筆者は、彼自身の記憶の鮮明さと、特にネガティブなものが意識に再浮上するときの心理的影響について述べています。この自己認識は、脳がどのように情報を処理し、どのようにそれを保持するかについての一般的な理解を深めます。

また、筆者は個人的な過去のエピソードを通じて、良い記憶がどのように現在の自己理解に役立つかを示しています。たとえば、幼稚園の記憶や家族とのやり取りは、彼のアイデンティティと自己理解の構築に貢献しているようです。これは、記憶が単なる過去の再現ではなく、現在の自己像を形成する過程においても重要な役割を果たしていることを示唆しています。

一方で、筆者が記憶の取り扱いについて抱くフラストレーションを描写する部分、特に「記憶のカートリッジ」が交換可能であればという願望は、人間の記憶の永続性と不変性に対する一般的な悩みを反映しています。これは、技術が進歩してもなお、人間的な制約としての記憶の問題に完全な解決策が存在しないことを示しており、この点で筆者の挑戦は多くの読者にとって共感を呼ぶでしょう。

エッセイを通じて浮かび上がるのは、過去の記憶が現在の感情や行動にどれだけ影響を与えるかという深い洞察です。筆者の個人的な経験を通じて、読者は自身の記憶と感情の経験を再考する機会を得るかもしれません。全体として、このエッセイは記憶の持続性とその感情的影響の理解を深めるための有益な寄稿です。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。