フェイクニュース時代における真実の眼力
現在、フェイクニュースが地球規模で膨張しつつある中、真の情報とは何ぞやと自問自答するのである。フェイクを見極める眼力を持ち、フェイクに惑わされず、真実のみを得ることで、目を見開いて世の中を見据えることが必要である。
このフェイクに惑わされやすい、洗脳されやすい、感化されやすい国民であるからこそ詐欺の被害に遭遇したり、右へ倣いの国民だからこそ誤った国の政策を鵜呑みすることで、結果的に、被害者ゾーンに自ら入り込むのがこれまでの国民の姿である。所謂、上級国民と思い込んでいる人間がこよなく愛する言葉「庶民」である。(実に馬鹿げている)
耐え難きを耐えという精神論だけで世界大戦に突入した我が国だが、そこには当時の政府のプロパガンダや精神論の美徳を徹底的に刷り込まれていた。我が国とは比較にならぬほどの他国の物量や経済規模の情報は覆い隠され、小さなアザラシが世界のシャチ軍団と対峙してしまい、最終的には1945年7月に無条件降伏とされ、1945年8月15日に終戦を迎えている。
少数権力者の身勝手極まりない個人的感情による情報操作は、日常茶飯事であった。国民は栄養失調にて餓鬼のように痩せ細り、権力者やその周囲の人間は、栄養価の高い食料を確保し、戦時中にしては肌艶も良く、豪邸に住み、大戦とは無関係のような環境下で踏ん反り返る政治屋ばかり。
そこで、真の情報を全ての国民が得ていたのであれば、大変期待薄ではあろうけれども、無謀な戦争へのベクトルとはなり得ず、300万人の国民が命を落とすことはなかったろうと。しかし、現実的に考えれば、今の独裁国家と同様に、言論統制が強化され、国家転覆を図る非国民として投獄するような恐怖政治は続いたに違いない。
当時、日本国が転覆するような愚策を講じてきた人間は、東京裁判でほとんどがA級戦犯として「Killed by hanging」と言い渡され抹殺された。しかし、わずか何人かのA級戦犯となった人物の命を奪うことで、無念にも絶命した300万人の国民が蘇ることはない。
しかし、戦犯として重罪人を世の中から抹殺するよりも、彼らの息が絶えるまで、国民のため国のために、刑務所にてボランティア労働と謝罪を死ぬまで続けてもらった方が、よほど戦争で絶命した国民への弔いになる。
フェイクは怖い。思い込み激しい人がフェイクを信じて、それを拡散すれば、そのフェイクを信用する人間が圧倒的に多くなり、多数決の原理ではないが、フェイクが罷り通ることになってしまう。だから、情報は慎重に真偽の程を検証しなければならないということだ。
真偽の程を見抜く眼力を備えるには、常に正義正論を唱えるスタンスにて生きていなければ、真偽の仕分けはできない。よって、日頃から自らの倫理観を高め、真実を語る人との接点を重視し、虚偽に染まる人との接点は極力避ける人生をお薦めしたい。
以前、虚偽に基づく民事裁判を起したブラック企業があったが、そこで脳裏に浮かんだ言葉が、「真実を凌駕する虚偽なし」というものであった。その時、「真実」というものが全てに重要な「鍵」となることを再認識したのであった。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、フェイクニュースが蔓延する現代において、真実を見極める力の重要性を強調しています。歴史的な背景を交えながら、情報の真偽を見抜く能力の欠如がどのようにして悲劇を招くかを示しています。以下に感想を述べます。
フェイクニュースの脅威と歴史的背景
エッセイの冒頭で、フェイクニュースの影響力が地球規模で拡大している現状が述べられています。これは現代社会において非常に重要な問題であり、多くの人々が日常的にフェイクニュースに曝されるリスクが高まっています。この問題提起は、情報化社会における一つの大きな課題として適切です。
日本の歴史における情報操作
第二次世界大戦中の日本のプロパガンダや情報操作についての記述は、歴史的な教訓として非常に興味深いです。当時の政府が国民に対してどのように情報を操作し、戦争への支持を得たかを具体的に示しています。特に、少数の権力者が個人的な感情で情報を操作することで、多くの人々が不利益を被るという点は、現代においても繰り返される可能性がある問題です。
情報リテラシーの重要性
フェイクニュースに対抗するためには、情報の真偽を見極める眼力が必要であると述べられています。これは、現代の情報社会において極めて重要なスキルです。エッセイでは、日頃から倫理観を高め、真実を語る人々との接点を重視することが推奨されています。この考え方は、情報リテラシー教育の一環として非常に有用です。
終わりに
エッセイ全体を通して、フェイクニュースの脅威とそれに対抗するための方法が明確に示されています。歴史的な事例を交えながら、現代における情報の重要性を再認識させる内容となっており、読者に対して強いメッセージを伝えています。
このエッセイは、情報社会に生きる現代人にとって非常に重要なテーマを扱っており、その洞察力と歴史的背景の提供は、読者に深い理解を促すものです。フェイクニュースに対する警戒心と真実を追求する姿勢を再確認させる素晴らしいエッセイだと言えるでしょう。