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映画「エンドロールのつづき」感想

 一言で、インドの映画監督、パン・ナリン氏の半自伝的作品で、映画少年の日常やインド映画の変遷、その裏にある貧困や労働などを淡々と映します。監督や俳優への敬意はありますが、一方でフランス映画らしい冗長・長回しな作風故に、好みは分かれそうです。

評価「C」

※以降はネタバレを含みますので、未視聴の方は閲覧注意です。

 本作、原題"Chhello Show (英題: Last Film Show) "は、インド・フランスの合作映画で、インド映画監督のパン・ナリン氏の少年時代を描いた「ほぼ実話の半自伝的作品」です。
 彼は、貧しい家庭で育ち、自分もチャイ売りとして働かなくてはならない環境下でしたが、ある日「映画に恋した」ことで、映画監督になりたいと思い立ちます。本作では、今はその夢を叶えたナリン氏の「少年時代の出来事」をメインに、インド映画の「変遷」、一方で彼の生活を取り巻く「身分制度・貧困・児童労働」などを淡々と描いています。

 ポスターに映された、映画に大きな夢を抱く主人公の少年サマイ役は、3,000人の中から選ばれた新人子役俳優のバヴィン・ラバリが務めました。
 本作は、「映画愛の高い作品」故に、トライベッカ映画祭ほか、世界中の映画祭で5つの観客賞を受賞し、さらにバリャドリード国際映画祭では最高賞にあたるゴールデンスパイク賞をインド映画として初めて受賞しました。
 その功績により、第95回アカデミー賞インド代表(国際長編映画賞)に決定し、さらにロスで行われた「アジア・ワールド・フィルム・フェスティバル2022」でも最優秀作品賞を受賞しました。

 その作風から、宣伝ではインド版ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』とのキャッチフレーズがついています。

・主なあらすじ

 インドの田舎町。9歳のサマイは家族そろって、生まれて初めての映画を観に映画館に行きました。普段は学校に通いながら、汽車の駅で乗客にチャイを売る手伝いをしています。
 厳格な父は映画を低劣なものだと思っていますが、信仰する「カーリー女神の映画」が上映されると知り、その映画は特別と、家族で街に映画を観に行くことに。
 彼が映画館に着くと、会場はとても混雑していました。多くの観衆がスクリーンに夢中になる中、サマイは後ろの「光」が気になります。
 映画にすっかり魅了されたサマイは、映画を観たくなり再び映画館に忍び込みますが、チケット代が払えず、外につまみ出されてしまいます。
 それを見た映写技師のファザルがある「提案」をします。サマイは、彼の職場で映写機やフィルムに興味津津になり、三度の飯よりも映画が大好きに。「何としても映画が観たい!」、その願いを叶えるために、友人を巻き込んで、「とある作戦」を考えますが…

・主な登場人物

・サマイ: バヴィン・ラバリ
 インドの田舎町に住む9歳の少年。両親と妹との4人家族。普段は通学しながら家業であるチャイ売りを手伝います。ある日、家族のお出かけで観た映画に一目惚れし、その世界にすっかり魅了されます。

・父: ディペン・ラヴァル
 チャイ売り。厳格な性格で、自身を「バラモン」と言い、映画などの芸術を低俗だと嫌います。当然、息子が映画好きになることを良しとしません。

・母: リチャー・ミーナー
 やんちゃなサマイを優しく見守ります。料理上手でお弁当のバリエーションが豊富です。

・ファザル: バヴェーシュ・シュリマリ
 映写技師、サマイの弁当と引き換えに、「職場」を見せてあげます。

1. 本作は、日本では珍しい「グジャラート語映画」である。

 本作は、日本で初めて一般公開される「グジャラート語映画」です。グジャラート語はインド西部のグジャラート州の公用語です。

 まず、インドは多言語国家故に、一口に「インド映画」と言っても、それぞれの言語の需要に合わせて映画を制作するため、必然的に映画の制作本数が多くなっているのが特徴的です。
 例えば、北インドのヒンディー語の「ボリウッド」、南インドのテルグ語の「トリウッド」(『RRR』はこれ)、タミル語の「コリウッド」、マラヤーラム語の「モリウッド」、カンナダ語の「サンダルウッド」など、それぞれの言語圏で制作された映画は、その制作の中心地とアメリカの「ハリウッド」をもじって、「〇〇ウッドフィルム」と呼ばれます。

 また、グジャラート語映画ではドール(英語版)を多用しているため、ボリウッドに倣い「ドリウッド(Dhol+Bollywood→Dhollywood)」の通称が名付けられています。また、グジャラート州で製作されていることから「ゴリウッド(Gujarat+Bollywood→Gollywood)」の通称も用いられています。

2. フランス映画の要素を含む、地味で淡々とした作品である。

 まず、本作鑑賞後、最初に感じたのは「インド映画にしては偉く地味だったな」ということです。
 本作は、インドとフランスとの合作映画です。そのため、フランス映画らしい、淡々とした、冗長で長回しな作風だと感じました。だから、世間一般で想像するインド映画にありがちな、「派手なセット」・「衣装」・「音楽」・「ダンス」はありません。※尚、本作で引用された映像内にはあります。
 ある意味、1000%沸騰脳筋アクション映画の『RRR』とは真逆の映画です。

 また、所謂ハリウッド映画のような、わかりやすい起承転結や盛り上がりを求める人には向かないかもしれません。
 本作は、「子供目線で描かれる日常」に多く尺を取っているせいか、上映時間が結構長く感じる作品でもありました。決して「つまらない」作品ではないし、十分「考えさせられる」作品ですが、賛否両論になりそうでした。

 最も、インドのカースト制度、芸能や宗教観に興味がないと、取っつきにくい内容かもしれません。
 例えば、「子供が主役の作品」だからという理由で、親子やファミリーで見ると、退屈になって寝落ちする可能性が高いので、要注意です。※決して、映画の出来が悪いわけではありません。寧ろ、『ベルファスト』と同じく、ミニシアターでじわじわ評価されていくタイプの作品だと思います。

3. 心象風景や比喩表現が多く、頭を使わないとわかりにくい点は多い。

 前述より、本作はわかりやすい起承転結や盛り上がりを見せてくる作品ではありません。その代わりに、心象風景や比喩表現を多用していました。そのため、作品を解釈するのに、大分頭を使いました。

 まず、心象風景としては、インドの田舎町・映画館の映像や照明・汽車の線路・野生動物・小屋の明暗・都会の街並みなど、日常に溢れる物を沢山映し、そこにサマイの心情を重ねていました。

 また、比喩表現としては、本作では「光」という単語が何度も登場します。サマイが映画館で「光」を見つけてから、道端に落ちていた「色ガラス」から見る景色をずっと眺めていたり(スクリーンの色はガラスの色に)、「光」を捕まえたい、「光」を勉強したいと心の声を吐露して、日光や映写機の光を「自分の進みたい道」に喩えたり、観客へメッセージを直接的に伝えるのではなく、少し「ぼかして」伝えていたのが特徴的でした。
 そのため、これら心象風景や比喩表現にどこか「エモさ」を感じる人もいるかもしれません。

 この辺は、昨年度のアカデミー賞脚本賞を受賞したケネス・ブラナー監督の『ベルファスト』と同じく、作中の台詞・状況説明を極力減らして、観客に「考えさせる」手法を取っているように思いました。だから、よく見てないと、頭を使わないと、よくわからないまま終わってしまう作品のように感じました。

4. 映画監督の「思い出映画」であり、色んな映画のオマージュも感じられる。

 本作は、パン・ナリン監督の幼少期を描いた御本人の「思い出映画」でもあります。作中では、彼が幼少期に観たであろう沢山のインド映画のワンシーンが挿入され、また色んな映画の「オマージュ」が見つけられます。

 前者としては、本作の宣伝にもあった『ニュー・シネマ・パラダイス』、先程紹介した『ベルファスト』が思いつきました。もしかしたら、今公開されているスティーブン・スピルバーグ監督の映画『フェイブルマンズ』もこのパターンかもしれません。(まだ観てないので、飽くまでも憶測です。)

 また、少年の冒険と線路・トロッコ・自転車がキーアイテムとなる点は『スタンド・バイ・ミー』、それに、夢を叶えたいと願う少年の話なら『リメンバー・ミー』、夢を叶えたいけど、貧困故に家から離れられないジレンマに陥る話なら『コーダ あいのうた』辺りとも似ています。

 本作を観ていると、自分の幼少期やこれらの作品を思い出して、どこか懐かしい気持ちになるかもしれません。一方で、どこかコテコテな展開と演出だなぁと感じる点もありました。

 つまり、本作は色んな映画の要素をミックスしているからこそ、映画ファンには響くのかもしれませんし、「映画に詳しい人だからこそ楽しめる」、少しニッチ向けな芸術系映画作品だと思います。だから、批評家からは高評価で、映画祭でも受けるのかもしれません。

5. インドの「現状」や時代の変遷については、考えさせられる点はある。

 前述より、本作は監督の映画愛だけではなく、インドの「現状」や時代の変遷についても描いています。家族を取り巻く貧困や失業、撤去された映写機やフィルムがどうなるかは考えさせられます。

 家族とのトラブルによって「牛飼い」から「チャイ売り」に身分を落とした父、貧しい経済状況故に、サマイも毎日働かなくてはなりません。父の仕事を手伝うサマイ、学校でも「チャイ売り子と仲良くしないで」と嫌がらせを受けます。

 また、サマイが映画に魅せられてからも、厳格な父はそれを認めません。実際に、「お前はバラモンの子だ、そんなやつが芸術に関わるな。」という言葉がありました。
 ここは、不可触民の青年が音楽家を目指す、映画『響け!情熱のムリダンガム』とは、ある意味「真逆」かもしれません。かつての日本でも、「河原〇〇」みたいな言葉がありましたし。

 紆余曲折を経て、映画愛が高まったサマイ、しかしやがて町の映画館は「終わり」を告げるのでした。
 映画館の映写機とフィルムは「過去の遺物」になり、業者に回収されてしまいました。何故なら、映画館では新しいパソコンとプロジェクターで映像を映すようになったからです。それにより、ファザルは映写技師を失業しました。
 また、町は急激に発展し、汽車ではなく電車が走ることに。それにより、サマイの家の最寄り駅には電車が止まらなくなり、父はチャイ売りを失業します。ここは、都市の発展と田舎の空洞化の対比が描いています。

 そして、映写機とフィルムが無くなるショックから、自転車でそれらが積まれたトラックを追いかけたサマイは、工場の前に辿り着きます。こっそり中に忍び込み、フィルムの山に飛び込む想像をしつつ、別れを惜しむサマイ。
 映写機の金属はスプーンになり、大量生産品となります。フィルムは腕輪やアクセサリーになり、色んなものに生まれ変わって、新たな生を受けたのでした。それにしても、この辺は、発展途上国の過酷な工場労働環境が映されていました。鮮やかすぎる水や、煙で従業員達が時折咳をする様子は、公害を彷彿とさせます。

 さらに、学校の先生はサマイにこう言います。「今のインドには『二つの階級』がある、それは『英語ができるやつとできないやつ』だ。自分の好きな仕事がしたければ、この街を出ろ。」と。ここに居続けては自分のやりたいことは見つからない、そう考えたサマイは、「重大な決断」を下すのでした。

6. 日本だと、倫理的には「?」なシーンは多いけど、インドだと「スタンダードなのか?」と思う部分は多い。

 本作では、お金のないサマイが何としても映画を観たいが故に、友人を巻き込んで、「とある作戦」を決行します。何と、倉庫から映画フィルムを「窃盗」し、それを自分たちで「上映」しようとしたのです。それにより、各地の映画館の上映中、突然映像が切れたり、違う映像が挟まれたり、とにかく大混乱に陥りました。何と返金デモまで起きてしまったので、しまいには、警察まで出動することに。
 当然、子供達は警察に捕まりますが、首謀者であるサマイ一人が少年院に送致されます。正直、この辺は、コメディカルに描かれており、子供のいたずらで済ませられるかもしれませんが、やったことは「犯罪」です。正直、心からは笑えなかったですね。

 元々、サマイの見た目は『ジャングル・ブック』のモーグリにそっくりで、草原でライオンを挑発するなど、いたずらっ子なオーラは強かったのですが、予想以上でした。彼の頭の回転が速くて悪ガキなのは、『サザエさん』の磯野カツオや、『クレヨンしんちゃん』の野原しんのすけっぽさはありますが。また、貧困下で盗みに躊躇ない点は、『はだしのゲン』の中岡元や、『火垂るの墓』の清太っぽさもあるかもしれません。
 勿論、この辺は「現代の日本の常識で判断してはいけない」のかもしれませんが。このように、本作は、倫理的には「?」なシーンが多いのです。しかし、インドならここは「スタンダードなのか?」と思ったりするんですよね。

 尚、『ベルファスト』でも万引きを計画する主人公の幼なじみと、それに引っ張られる主人公が描かれていたのを思い出しました。

 そしてサマイは少年院で反省しつつも、収容された他の子供達を見て、「音」を発見します。瓶の口を笛代わりにする、何かを叩いて打楽器にするなど。
 釈放後、仲間の元に戻ったサマイは、かつて自分達が切り取ったフィルムに音をつけ、映画を「自主上映」しました。皆、家族や知り合いを呼んで、一大イベントに。そこには、かつて自分達を補導した警察官まで楽しんでいました。
 ここは、フィルムと映写機だけでは音が鳴らないからこそ、自分たちで音をつける、「サイレント映画」と「トーキー」の比較になっているように思います。

 その後何とサマイの父も現れ、彼は息子の様子を見て、表情を変えました。あれだけ芸術を嫌っていた父の中で、何かが変わったのです。これが、サマイの進路に繋がりました。
 ちなみに、本作では、サマイが罰として尻叩きされるなど、父親からの体罰シーンが多く、所謂「昭和のカミナリオヤジ」的な描かれ方をしています。ただこの父親は、一概に「毒親」という訳でもなく、「厳しくもどこか不器用な親」なのかもしれません。

7. 意外と「飯テロ作品」という見方もありそう。

 本作は、サマイ母の作るお弁当のバリエーションの豊富さに驚きました!カレーやスパイス、肉や野菜がふんだんに使われたインド飯がとても美味しそうで、鑑賞中、私も食べたくなる程でした。

 映画館に無断で忍び込み、つまみ出されそうになったサマイを庇ったファザル、しかしサマイが無一文だとわかると、お弁当を「賃金」代わりにして、職場を見せてあげたのでした。

 ちなみに、お母さんの「オクラ食べないじゃん、アンタ。」には思わず笑いました。オクラはおじさんの好物だったので、その日のお弁当は空でした。

8. 「エンドロール前のシーン」からは、映画愛が感じられる。

 本作のタイトル『エンドロールのつづき』ですが、「エンドロール前のシーン」にて、数々の巨匠監督や俳優達の名前が挙げられます。
 エドワード・マイブリッジ、スタンリー・キューブリック、小津、黒澤など、ちりばめられた数々の巨匠監督、ラジニカーントら俳優たちに捧げるオマージュがありました。ここは、パン・ナリン監督の「映画愛」なのかと思います。
 つまり、「つづき」ということは、監督自身が「その先へ行って夢を叶える」ということを伝えたかったのかなと思いました。

 ちなみに、彼は、「シネマトグラフ」を発明したリュミエール兄弟を敬愛しているそうです。「リュミエール」は、フランス語で「光」という意味です。前述より、本作では何度も「光」が出てくるので、正に意味を掛けたのでしょう。

 そういえば、「シネマトグラフ」というと、『ゴールデンカムイ』を思い出します。他にも、「映画制作」をテーマにした映画には、時折登場しています。

 本作は、完成度としては悪くないのですが、上記のような「見せ方」により、確実に観る人を選ぶ作品だと感じました。一方で、パンフレットは完売していたので、響く人には響くのかもしれません。

出典: 

・映画「エンドロールのつづき」公式サイト

https://movies.shochiku.co.jp/endroll/

※ヘッダーは上記より引用。


・Cinemarche 映画感想レビュー&考察サイト

『エンドロールのつづき』あらすじ感想と評価解説。実話から描くパンナリン監督の映画愛とインドの魅力が満載の感動作|映画という星空を知るひとよ132

・インド映画 Wikipediaページ

・グジャラート語映画 Wikipediaページ