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映画「ケイコ 目を澄ませて」感想

 一言で、聾の女性ボクサーの日常と試合、彼女を取り巻く環境の変化、聾唖者と健聴者の会話や社会の在り方などをコロナ禍を交えて描いた作品です。音や会話の手段、障壁など色んな意味で「気づき」が多く、一見の価値がある良作です。

評価「B+」

※以降はネタバレを含みますので、未視聴の方は閲覧注意です。

 本作は、先天性聾唖(ろうあ)者のプロボクサー小笠原恵子の自伝、『負けないで!』を原案とした映画です。映画『Playback』・『きみの鳥はうたえる』や、Netflixオリジナルドラマ『呪怨:呪いの家』などの三宅唱監督最新作です。

 聾(ろう)の女性ボクサーの日常と試合、彼女を取り巻く環境の変化、聾唖者と健聴者の会話や社会の在り方などを淡々と描いた作風が高く評価され、主演の岸井ゆきのさんは第46回日本アカデミー賞では主演女優賞を受賞しました。他にも第36回高崎映画祭、第96回キネマ旬報ベスト・テン、第77回毎日映画コンクールで、合計12賞に輝きました。
 元々はミニシアター系作品ではありますが、その完成度の高さやインパクトの大きさから、口コミ効果で話題作となりました。
 私の端的な感想を述べると、地味ながらも力作で良作だったので、見てよかったです。一見の価値はあります。

・主なあらすじ

 女子ボクサー選手の小河恵子(以下ケイコ)。彼女は、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえません。 彼女は、再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続けます。
 一方で、母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていってしまいます。
 進退を決めかね、会長には「一度、お休みしたいです」と手紙を書き留めますが、中々出せずにいました。 しかし、彼女を取り巻く日常は徐々に変わっていき…

・主な登場人物

・小河恵子/ケイコ 演 - 岸井ゆきの
 女子ボクサー選手。先天性聾唖者。嘘がつけず、愛想笑いが苦手な性格です。昼間は清掃業、夜間はジムで練習、試合にも出場します。ある日、会長とジムの「事情」を知り、進退を決めかねますが…

・会長 演 - 三浦友和
 ケイコが所属するジムの会長。彼女を育て、練習に付き合い、試合では見守ります。しかし、ある日病に倒れてしまい…

・林誠 演 - 三浦誠己
 ケイコのマネージャー。

・松本進太郎 演 - 松浦慎一郎
 ケイコのトレーナー。

・小河聖司 演 - 佐藤緋美
 ケイコの弟。姉弟でルームシェアして暮らしています。ギターが得意。ちなみに、彼女はR&B系で大坂なおみさん似。

・小河喜代実 演 - 中島ひろ子
 ケイコと聖司の母。試合時には必ず駆けつけますが、一方で常に怪我が絶えない娘を心配し、「いつまで続けるつもりなの?」と言葉をかけます。

・会長の妻 演 - 仙道敦子
 名前は千春。会長とともにジムを続け、常に選手達のフィジカル面やメンタル面を気にかけます。

1. 作風は地味だけれど、鑑賞後にジワジワと来るし、色んな事を考えられる。

 本作は、とても地味で淡々とした作風でした。(その理由は後ほど。)しかし、その作風に反して、とにかく「情報量」が多く、鑑賞後にジワジワと来て、色んな事を考えられる作品でした。
 この淡々とした作風は、ケイコの日常を切り取ったドキュメンタリーエッセイ、または「私小説」とも言えそうです。現に、彼女は日記をつけていたので。
 それ故に、「明確なオチ」はありません。しかし、ケイコをはじめ、どれだけ登場人物達の人生に思いを馳せられるかが、こういう作品を楽しむコツなんだと思います。(ここは、『そばかす』もそうでしたが。)
 所謂、笑ったり泣いたり、感情がハッキリと感じられるような感動大作ではないけれど、コアな人気があるのも納得の作品でした。

2. 三宅唱監督の拘りで、カメラは「16ミリフィルム」を使用。

 本作は、三宅唱監督の拘りで、カメラは「16ミリフィルム」を使用しています。そのため、時々、画面が「暗く」、また「レトロ感」が醸し出されていたのは、敢えての演出だったそうです。
 街の景色や降り注ぐ光の粒を映すことで、ケイコの心のざわめきや心がきしむ音を「記録」し、彼女が見ている世界をうまく演出しています。

 ちなみに、この「16ミリフィルム」は、動画撮影用カメラの一つですが、「35ミリフィルム」よりも、カメラや映写機が小型で、テレビニュースのロケ撮影・テレビドラマ・低予算の劇場用映画・個人での撮影などで使われます。近年は、ビデオカメラやビデオプロジェクターの高画質化、低価格化や、デジタル化とそれに伴うSDカードの普及のため、使用される機会は減少傾向にあります。

3. 音や光、「静」の演出が上手く、とても印象に残った。

 本作は、撮影技法だけではなく、音や光の演出が上手かったので、とても印象に残りました。

 まず、「音」について。1にて、「本作の作風は地味で淡々としている」と述べましたが、これは「音」を極力減らし、所々に「サイレント」的演出を取り入れたからです。
 三宅監督の、「耳の聴こえないケイコと『同じ体験』をして、彼女の見える世界に思いを馳せてほしい」との想いから、劇伴はほぼなく、その分日常の生活音を多く取り入れていました。
 例えば、リズミカルに音を奏でるスパーリング・初心者が上手に叩けないパンチングボール・縄跳び・キュッキュッとマットに擦れるシューズの音・トレーナーの掛け声などボクシング関連の音・電車や車の音・信号の音・人の話し声・川の流水・波紋など。 唯一、「音楽」が流れたのは弟聖司のギターのメロディーくらいでしたが、それも10秒程でした。

 次に「光」について。これは、昼と夜の明暗・川に映る日光や電飾・電灯や電車やマンションなど街中の光など、視覚から得られる情報がしっかりと伝わってきました。
 三宅監督は、「都市開発で変わりゆく東京の下町で、どこか郷愁を感じてほしい」と仰っていました。

 そして、ケイコは耳が聴こえない故に、他の感覚は研ぎ澄まされています。視力は良いし、人の表情の変化によく気づきます。だからタイトルが「目を澄ませて」なのかしら?

 さらに、「静」について。ボクシングの動作・手話・ダンスが「サイレント映画」みたいでした。どれも「音」ではなく、体全体を使ったコミュニーケーション方法です。
 夜に、ケイコ・聖司・聖司の彼女の3人で、アパートの下でボクシングの動作と、ヒップホップダンスの振付をマスターしたシーンが印象に残りました。
 この辺の動作が「サイレント映画」っぽく見えるのは、フランス映画『エール!』やアメリカ映画『コーダ あいのうた』の演出と似ています。また、世界的サーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」のパフォーマンスもそれですね。あちらには、聾唖者のパフォーマーの方もいらっしゃるとか。

4. 信頼してるけどすれ違ってしまう親子や、姉弟の日常など、家族の描き方も良い。

 本作、小河家の様子もよく映していました。小河家は母・ケイコ・聖司の3人家族で、ケイコ以外は健聴者です。

 まず母は、ケイコの試合の時は必ず上京し、観戦していました。娘を応援しつつも、一方で増えていく怪我を心配し、「いつまで続けるの?辛いなら辞めても構わないよ」と伝えます。親として子供を応援したい気持ちと、心配する気持ちがせめぎ合っています。
 一方で、ケイコも母の愛情は感じつつも、その(優しさによる)心配がどこかプレッシャーになっていることを自覚します。しかし、それを言葉にすることができず、モヤモヤが徐々に溜まっていってしまい、やがて進退を決めかねるまでに心が迷ってしまいます。ここは、お互いが信頼してるけど、それでもどこかすれ違ってしまう親子の描き方が上手いと思いました。

 次に聖司とその彼女です。普段は姉弟でアパートでルームシェアし、時々彼女が遊びに来ます。聖司、最初は彼氏かと思いました(笑)
 聖司は飲食店バイトをし、家ではギターを弾いていました。パソコンの前でギターを演奏しており、画面には動画サイトが映っていましたが、もしかしたら撮影ですかね?もしかしたらYouTuberかな?(学生かフリーターかはわかりませんでした。)
 聖司の彼女はR&B系で大坂なおみさん似のような雰囲気でした。ヒップホップダンスが得意で、3人でコミュニーケーションを取ります。後は、手話を覚えて拙いながらもケイコと会話してました。
 このように、姉弟(+聖司の彼女)のように、自分の夢を追う、自由業を選択するのは今時の若者像に近いです。

 ちなみに、弟役の佐藤緋美さんは、浅野忠信さんとCHARAさんの息子さんで独特の雰囲気があります。今年観た作品でも3作くらい出演していて、これから売れっ子になりそうです。

5. 「聾」であることはわかりにくい故に、ディスコミュニケーションになることは多い。

  パンフレットにて、本作の手話監修を務めた、東京都聴覚障害者連盟事務局長の越智大輔氏は、「『聴覚障害』は見た目では『わかりにくい』故に、それに気づかれないことか多い」と述べています。
 現代では色んな作品や学校の紹介を通して、昔よりも「聾唖者」について知る機会は増えました。また、社会制度でも、聾唖者の方の自動車運転免許取得や、町中の表記などで、「社会的な配慮の必要性」が認知されてきています。
 しかし、まだまだ多くの状況で、「耳が聴こえない」ことがディスコミュニケーションになってしまうことは多いことを突きつけられました。

 まず、ケイコがジムに行くまでの階段を降りていたとき、大柄の男性にぶつかってしまい、男性のスマホが落ちました。すかさず男はケイコに怒鳴りつけたましたが、ケイコは一言も発さず、そのまま通り過ぎました。もしかしたら、男の態度に気づいていたかもしれません。しかし彼女には「怒鳴り声は聴こえない」し、「手話で話しかけても相手にはわからない」と判断した故の行動だったのかもしれません。ただ、男性から手を挙げられなくて良かった、男性の剣幕が凄かったので、少しヒヤヒヤしました。
 ただその後、ケイコがその階段を「避けた」のも何かわかります。勿論、その男性はいないのですが。

 次に、ケイコが最初の試合で勝ったときに写真撮影する際に、写真のケイコは笑顔で写っていません。元々愛想笑いが苦手ではあるのでしょうが、それでもカメラマンの「笑って〜」の指示がうまく伝わってないような気もします。撮影はパッパと終わるものなので、動作を止めて手話で話すというのは難しかったのかもしれませんが。

 そして、ケイコが夜中に土手で佇んていたら、警察に職質されてしまいました。元から小柄で童顔な見た目もあり、高校生に間違えられ、しかも試合後の傷だらけの顔だったので、暴行を疑われました。
 ケイコは、そうではないと誤解を解こうとしますが、やはり二人組の警察官とはうまくコミュニケーションが取れずに終わりました。

警察官①「おい君、こんな時間に『高校生』が何しているんだ?」

 ケイコはすかさず聴覚障害者手帳を見せます。一見すれば「納得」したような二人でした。ただ彼らは手話はできないようで、一人はボディーランゲージでコミュニケーションを取ろうとしましたが、うまくいきません。

警察官①(手振りで)「あーそういうことね。(高校生じゃないのか。)で、その傷はどうしたの?」

ケイコ(手話で)「ボクシングです。」

警察官①「うーん、『喧嘩』したのかな?」伝わってない!!

警察官②「あ、『アレ』な感じっぽいのであっち行きましょう。」

 うーん、この一連の過程、タイミングが悪かったといえばそうなんですが、公共で仕事する人であり、人を護る人が、こんな上から目線で「関わっちゃいけない人」扱いするのはどうなのでしょうか?勿論、皆が手話ができるわけではないのはわかりますけどね。ここはかなりモヤモヤしました。

6. 所謂、「聾唖ゆえに、困難を乗り越えるスポ根物語」ではなく、「等身大の女性のエネルギッシュな物語」として描いている。

 三宅監督は、「ケイコを『天才的主人公』ではなく、喜怒哀楽に揺れ動きながらも、一歩ずつ前に進む等身大の、どこにでもいる女性として描きたかった」と仰っています。彼女は反骨精神が強くてエネルギッシュ、課題にも屈せずチャレンジします。たまたま「耳が聴こえない」ハンデはあるけれど、それは「個性」であると。

 ケイコ(岸井ゆきのさん)の見た目は小柄で童顔ですね。勿論、筋肉はついているけども、ボクサーとしてはかなり細身だと思いました。腹筋は見えなかったけど割れていたのかな?

 それにしても、彼女は高校生までは「ヤンチャ」しており、反抗して教師を殴ったこともあるとか。目つきが時々「ヤンキー」っぽく見えるときがあるのはその名残でしょうか。

7. 社会の中で「不便」なことはある、でもそれは「不自由」でも「不幸」でもない。

 前述より、「耳が聴こえない」ことで、社会の中で「不便」なことはあると述べました。しかし、それは「不自由」でも「不幸」でもないことも伝えています。
 ケイコは日中はホテルの清掃業をし、夜はジムでトレーニングをこなします。清掃では健聴者の同僚と共に難なく仕事をこなしていました。確かに、清掃業務は「やることが決まってる」し、「黙々と作業」できるので、そこまで「耳によるコミュニーケーションや発話」が必須ではないですね。
 ちなみに、実際の小笠原恵子さんは歯科技工士の学校出身だったとのこと。いずれにせよ、「発話」をほとんど必要としなくても可能な職業ではあります。

 また会長に取材するインタビューアーは、会長に対し、「小河さんが耳が聴こえないことで、お互い『不自由さ』って感じませんか?」と質問します。しかし、会長は「確かにゴングの音やコーチの指示が伝わりづらいことはあります。でも、それらが『不自由』だと思ったことはありません。」と回答します。

 それにしてもこのインタビューアー、何故ケイコに直接インタビューしないのかしら?何となく「取材しづらい」から?どこか「コミュニケーション取りづらい」と一方的に見てないでしょうか?しかし、このように感じてしまうのも、彼が聾や手話に慣れていないせいかもしれません。ここは、自分達にもこう思っている点がないか、聞かれているように感じました。

8. コミュニケーション手段は「手話」だけではなく、模索・考案すれば色々とあるのかもしれない。

 本作で登場した、健聴者と聾唖者間でのコミュニケーション手段は「手話」だけではありません。確かに普段は手話が多いけれど、細かく伝わりづらいニュアンスは、筆談や読唇術、手話とまではいかないけどボディーランゲージなども併せてコミュニーケーションを取っていました。

 必ずしも登場人物全員が手話をマスターしている訳じゃないけれど、親しい仲なら、大体のコミュニケーションは「取れている」ことが多いように感じました。これはお互いの関係の「慣れ」なのかしら?

9. 配慮や何気ない言葉、悪気はないのかもしれないけど、「どこか上から目線ではないか」考えてしまう場面もあり。

 本作では、ケイコにあからさまに無配慮な人は何人もいましたが、一方彼女に配慮しよう、歩み寄ろうとした人の姿も描かれました。ただ、そこにある何気ない言葉や行動は、悪気はないのかもしれないけど、「どこか上から目線ではないか」と考えてしまう点もあったように思います。

 まず、ケイコの職場の先輩は手話で、「仕事とボクシング、両立させてて偉いね~」と話します。
 ケイコは手話で「ボクシングをすると頭がスッキリして、仕事のことをリフレッシュできるんです。」と返答します。
 この「偉いね~」の言葉、先輩に悪気はないのは事実です。しかし、この言葉ってケイコら当事者の方にはどう響くのでしょうか?「偉い」という言葉ってどこか「上から目線」ではないか?ここが難しいですよね。

 また、ケイコが出会った新しい五島ジムの女性トレーナーは、彼女とコミュニケーションを「円滑に」取ろうとして、iPadで「デジタル筆談」を試みました。彼女はケイコを気に入り、「貴女の面倒見れますよ」と伝えます。
 しかし、ケイコは「家が遠いので」と、断りました。その本音は?本当はどう思ってたのでしょうか?
 勿論、このトレーナーは悪気のある人ではなく、本当にケイコを受け入れようとした感じがするので、彼女を責めるのはお門違いではあります。
 それでも、何かがケイコの中で引っかかったのか。彼女がどう思ったかはわからないです。ただ、トレーナーがケイコに気持ちを押し付けない人なのは良かったです。

 その後のマネージャーとコーチは、「お前のこと思ってたのに何だよ、あの態度は!」と、思わずケイコに本音をぶつけます。それにムッとしたケイコは、二人とは別れてお互い別々の方向へ歩きます。
 ここの彼らの気持ちはわからなくはないけれど、どこか「ケイコは耳が聴こえないから気にかけてやらないと」とか、「彼女は実力者だからボクシングを続けてほしい」といった「押し付け」みたいな気持ちが伝わってしまっていたのかもしれません。ここも難しいですよね。

10. 聾故に「無音」であること、これが「コロナ禍」の舞台とマッチングしているように見えるのは上手い。

 本作は、「コロナ禍」のご時世を舞台としています。だから皆がマスクを着用し、極力発話によるコミュニーケーションを避けたり、互いに距離を取って「孤独」になったりする雰囲気がありました。
 元々、聾がテーマ故に、「無音」がクローズアップされているのですが、これが「コロナ禍」の舞台とマッチングしているように見えるのは上手い演出だと思います。

 マスクをつけることで口は隠れます。元々、パッと見ただけでは、健聴者と聾唖者の見分けはつかないけれど、口が隠れることで、その見分けはよりつかなくなります。これは、一見すれば「気づかない」だけで、お互い同じ環境で生活していることを、より自然に伝えようとしているのかなと思いました。ただ、そのせいでケイコは読唇術ができないため、「コミュニーケーションの難しさ」は顕著にもなってます。

 また、周囲(マジョリティ)が発話を必要としなくなるからこそ、聾(マイノリティ)により「近い」コミュニーケーションの状況になったのかもしれません。(勿論、音が聴こえる・聴こえないといった違いはあります。)

 そして、人が集まれないので、試合も「無観客」でした。観客はいないので、歓声や怒号は聞こえません。会長やトレーナー、コーチの声しか聞こえないからこそ、パンチの音や選手の息遣いはよく聞こえました。
 試合会場には入れないので、観客は中継番組を観ます。母はアパートで聖司の彼女と見て、聖司はバイトの休憩時間に見てました。
 このご時世だと、人々が中々会えない故に、物理的な繋がりは弱くなりがちかもしれません。しかし、心理的な繋がりまでは弱くはならない、そんな対比がありました。

11. 聾唖者同士の「会話」は想像したくなるし、友人との思い出は「普遍的」なものかもしれない。

 ケイコは休みの日、聾学校で出会った友人達とカフェで女子会し、ガールズトークを繰り広げます。皆「手話」で会話するので、手の振りがよく見え、時々手を叩く音が大きく鳴っていました。皆ゲラゲラ笑ってるし、とても盛り上がってましたが、もしかして「恋バナ」かな(笑)?
 ここは、敢えて「字幕がついてない」ので、彼女らが何を話していたのかは、想像にお任せする演出なんでしょう。※勿論、手話がわかる人にはわかると思います。でも、詳細がわからなくても、「楽しい」ことは伝わります。
 ちなみに、ケイコの友人役の俳優さん達は、本当に「聾唖者」の方だったそうです。

 また、この辺の描写は映画『桜色の風が咲く』で描かれた、盲学校の学生生活と似ているように思います。
 個人が持つ「特性」によって行った学校が「違って」いても、学生生活を謳歌するのは「皆同じ」なんですよね。どの環境にいても、友人との思い出は「普遍的」なものかもしれません。

12. ケイコと会長の「師匠と弟子」であり、「同志」であり、「疑似親子」みたいな関係は良かった。

 ケイコと会長の関係は、「師匠と弟子」です。会長はケイコの才能を見出し、練習に付き合います。そしてケイコもそれに応えるように試合に出て、実力を伸ばします。そこに、「聾唖者だから特別扱い」はありません。だから、「ボクシングを通じた同志」にも見えました。

 しかし、ある日会長は病に倒れ、また生徒の減少でジムを畳むことになりました。何とかして存続させたいと、コーチやトレーナー、会員達、皆で奮闘するも、結果は難しいものでした。
 ジムが閉鎖されることを知ったケイコは進退を決めかねて、しばらく休業を決意します。しかし、会長に顔を合わせる勇気がなく、手紙も渡せずにいました。

 そして、会長とケイコは、ある意味「疑似親子(父と娘)」みたいな関係にも見えました。元々、会長は妻と二人暮らしで、子供はいませんでした。
 作中にてケイコの父親は出てこないので、もしかしたら、会長に「父性」を感じていたのかもしれません。
 もしかすると、彼女が進退を決めかねていたのって、ただ「ボクシングがしたい」のではなく、「会長の下でボクシングがしたかった」からなのかもしれません。

 最後、会長は入院し、移動は車椅子になります。元々耳が聴こえないケイコと、徐々に視力や歩行能力を失っていく会長。その能力は、先天性で「ない」ものか、後天性で「失っていく」ものか、ここも上手く対比されていました。

13. 「夢を叶えた」後も現実は続くし、日々戦いなのかもしれない。

 ケイコは最後の試合にて善戦するも、惜しくも勝負には負けてしまいました。
 そして、彼女が選手を続けるのか、それとも別の道に進むのかは、本作では語られていません。
 彼女はプロボクサーであり、「夢を叶えた」人です。しかし、それは「永遠」ではなく、いつどうなるかなんて、誰にもわからないのです。今の道が思いがけないことで変わるかもしれません。
 ケイコも、対戦相手達も、ジムの会員達も、ファイトマネーやボクシングの収入だけで生活はできていません。それが出来るのは、ほんのごく僅かの人だけ、スポーツや芸能の道は本当に厳しいです。
 これは、会長も同じです。親からジム経営を引き継ぎ、生徒を育成することに情熱を注ぐことが天職でも、いつかは「終わり」が来てしまいます。

 人間誰しも、目指した道、叶えた道が全てではない、でもその後に、「第二の道」を切り拓いていく。ここは、「聾唖者」や「健聴者」に留まらず、「老若男女に通じる普遍的なメッセージ」だと思います。

 最後に、ケイコに挨拶に来た作業服の女性は、最後の試合で戦った選手でした。彼女もケイコと同じく、ダブルワークで働きます。自分の頑張りが誰かの励みになることはあるんですよね。
 その後にそっと微笑んだケイコ、その時が彼女が「答え」を見つけたときかもしれません。

 もう上映館はかなり少ないので、口コミ貢献はあまり出来てないですが、ご興味がある方は是非!

 最後に、パンフレットが日記帳風なのは、彼女の日記を思い出すようで、粋なデザインだなぁと思いました。

・出典

・映画「ケイコ 目を澄ませて」公式サイト

※ヘッダーはこちらから引用。

・映画「ケイコ 目を澄ませて」公式パンフレット

・映画「ケイコ 目を澄ませて」Wikipediaページ

・「16ミリフィルム」Wikipediaページ

・小笠原恵子 Wikipediaページhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%81%B5%E5%AD%90