今年華麗にスルーした話題の新作ゲームをミリしらで語る
はじめに、あるいは断り
どうも、今月からの新作ラッシュを狂おしいほどに待ちわびていた僕です。
黒神話:悟空や Astro Bot など SNS を賑わせる作品がようやく現れたものの、話題の最新作がながらく途絶えていたこの夏を皆さまいかがお過ごしだったでしょうか。
本来はこの夏にリリース予定だった Frostpunk 2 と S.T.A.L.K.E.R. 2 がさらに延期し、春先には JRPG 復活と海外メディアに謳われたのもつかの間、真・女神転生 V Vengeance(は新作タイトルなのか?)のほかにパッとしたものが出ないことに戸惑ったひともいたでしょう。
実際、GOTY を決めろ今すぐに!といわれたら僕は Somi の未解決事件は終わらせないといけないからを挙げますが、同作者のリーガル・ダンジョンの方を高く評価していますし、GOTY にふさわしい「格」があるかは正直悩ましいところ。個人的には Path of Exile 2 か S.T.A.L.K.E.R. 2 か Warhammer 40k: Space Marine 2 に納得できる「格」があるといいなと期待に胸をふくらませています。
さて、本記事では僕が華麗にスルーした今年の話題作をミリしらで語ります。
ポケモンとの類似で議論を呼んだパルワールド。
長寿シリーズの主人公交代を演出した龍が如く 8。
ユーザーからは大絶賛の Final Fantasy 7 Rebirth。
スマッシュヒットのユニコーンオーバーロード。
そして、今年の GOTY 筆頭の黒神話:悟空。
――いずれも多少の魅力とプレイの意義を感じながらも「ま、やらんでええか……」と生温かくお見送りした今年の話題作。
そのため、本記事では、僕がなぜ「面白くなさそうだな」と感じたか、それでもどこにプレイの意義を感じ、もし書くとしたらなにを批評の論点にするかを書いています。情熱的な賛辞や華やかな解釈はなにひとつありませんので、自分とはことなる意見にすぐアタマに血が昇る方やゲームへの愛着が強い方にはお勧めしません。
反対に、プレイするゲームの取捨選択という逃れられない問題に悩み続けている方、あるいは檻のなかのチンパンジーが暴れているのを眺めるのが好きな方はぜひどうぞ。
結局、現実問題として何にお金と時間と体力を賭けるかという判断は憑きまとうわけで、作品の事前評価を言葉にすることをテーマとした本記事はロマンティシズムを越えてゲームと向き合うひとつのかたちを提示している、はずです。
パルワールド
コンセプトがなあ。
本作の発売当初は、ポケモンのモデリングを盗んでいるだのリスペクトが足りないだのでインターネットで吹き上がったけども、僕個人はそれよりも「マジ」か「ネタ」かの位置どりが中途半端にみえたのがスルーの決め手だった。
つまり、特定のポケモンを彷彿させるキャラクターがミニガンを握っている広告やパルたちを労働させたりいたぶれたりするメカニクス(を利用したさまざまなプレイ動画)が「下品」なのは前提として、それが Temtem のようなポケモンライクの変化球か、それとも High on Life のようなパロディゲームのポケモン版かが曖昧にみえた。前者ならたんに「悪趣味」だし、後者ならキャラクターデザインに可愛げがありすぎて「残酷趣味」に映る。
そのおさまりの悪さ、居心地の悪さがパルワールドに賛否両論の話題性をもたらしたのはたしかだし、当時のポケットペアの知名度と規模感を考えると戦い方としてはたぶん正しい。GTA シリーズを挙げるまでもなく、不謹慎な遊びでしか得られない愉楽があるのも周知の事実。
だからまあ、商業的な狙いは理解できるけどある種の美的判断としては受け容れられなかった、かな。
くわえて、サバイバルクラフトというジャンルが個人的に苦手なのもある。
Icarus を発売当初にソロで 40 時間だけプレイしたこともあるが、その面白さは認めつつも「これは独りでやるゲームじゃないよな」という一抹の想いと面倒臭さが拭いきれずに投げだしてしまった。パルワールドもそうかは別にして、複数のフレンドとお喋りしながら楽しくこなす作業量と課題難易度をひとりで黙々とやるのはなかなか苦行味が強い。
ヴァルヘイムもフレンドと少しだけプレイしたが、そのセッションにかぎれば自分に合わないのを感じてすぐにやめてしまった。
結構最近プレイしたのもあり、有識者による課題攻略とそのための準備手順が確立されたなかでやるサバイバルクラフトは体験としては学校の文化祭に近く、初見プレイヤーとしてはフレンドと遊ぶためにゲームをプレイする感覚(僕が好きなのはその逆)だった。優れた作品なだけに、リリース直後にフレンドといっしょにあーだこーだと暗中模索できたらきっと面白かっただろうな……。
パルワールドにはもちろんそのお祭り感を楽しめる可能性もあったはず。
が、フレンドをわざわざ集めるモチベーションはなかったし、僕の Discord 鯖でもゲームとしては盛り上がらなかったので華麗にスルーした、そんな感じです。
結局、パルワールドの商業的成功のあとにポケットペアが何を作るかに注目すべきなんだろう。
それは、未解決事件の Somi にも、エブエブこと Everything Everywhere All at Once の Daniels にもいえる。
社会的にかなりヒットすると、大衆から何が受け容れられたかが明確になると同時におなじようなものへの期待感が醸成される。それにぴたりとあてはまるものを(過去作の自己模倣として)おざなりに作ることもできれば、期待と革新のバランスをとりながらより規模の大きい作品制作に挑戦することもできるし、あえてそれを無視することで小規模に留まりながら自分の作りたいものにこだわるアーティスティックな途もある。つまり、制作者が真になにを欲望するかが問われるのだ。
もちろん、ファンダムとの継続的なコミュニケーションをはじめ、制作規模が大きくなるとクリエイションというより組織運営の仕事と要求がふえるし、スポンサーや提携企業が多くなると想定客層が拡がる代わりにさまざまな「縛り」も生まれるだろう。ポケットペアは今のところ拡大路線を進んでいるようにみえるけども、ゲーム業界の無頼じみた作品制作で話題性を作ってきた自家薬籠中のやり方を今後も続けられるかはやや疑問が残る。
Discord 鯖と焼肉オフ会でお世話になっている Jey.P さんはポケットペアのパルワールド "以前" の作品の特徴を次のようにまとめている。
この邪悪な愉楽がパルワールドでも "メカニクスとして" 貫徹しているかの判断はできないが、今後の作品展開を分析するうえで、ビジネスとしてもクリエイションとしても重要な評価軸になりそうだ。
龍が如く 8
おめでとう、きみが最も誘惑してきたで賞だ。
龍が如くの新しいナンバリングタイトルを避けた理由はいくつかあって、ひとつは、今作が桐生一馬をフィーチャーしていたこと。この長寿シリーズのプレイ経験がほとんどない僕にとって、桐生というキャラクターは、仁義に厚く、女子供を守り、ステゴロが大好きで、ときどきシュールなギャグシーンをはさみながらも漢臭さのムンムンと匂い立つファンタジーヤクザ(偏見)の代名詞的存在だ。
体育会系部活出身だからか、マチズモにはわりと嫌悪感を覚える僕は先入観ながらあまり良い印象を抱いていない。
とはいえ、桐生はカタギにも裏社会にも属さないマージナルな存在として最近は扱われていたようだし、前作においてこの「周縁」という概念、あるいは「グレーゾーン」は物語のテーマにも主人公らのポジションにもなっていたからこのシリーズをいかに脱ヤクザ化させるかは結構昔からの懸案だったんだろうな、と想像する。その意味で、春日一番以前の主人公をどう美しく引退させるかはファンダムにとって大事な部分だから、まあ、致し方ないことなのだろう。
ちなみに、桐生のがんの罹患原因について検索したら、おそらく専門的見地から興味深い指摘をしている記事を見掛けたので引用しておきます。
もうひとつ、龍が如く 8 を避けた理由は RPG としてのデザインだ。
以前書いたように、前作の物語やテーマ性、コンテクスト性は高く評価しつつもゲームとしてはまるで面白くなかった。ライブコマンドと銘打たれた戦闘システムはおよそ戦術性に欠け、ランダムエンカウントによる経験値ファームが可能なビルドシステムには戦略性がなかった。ありがちではあるが、時間に余裕がありかつ作業を作業として愛せるひとでないと苦痛を感じずに進めるのは難しかったんじゃないかと想像する。
最近、オクトパストラベラー 2 をプレイしてあらためて痛感したけども雑魚敵のランダムエンカウントというシステムはかなり面白くない。
ゲーム全体の戦略性を放棄し、戦闘システムの面白さに依存し、マップ探索や移動のテンポを悪くするどころか邪魔するので単純にストレスが溜まる。さらに、ランダムエンカウントによる経験値ファームが節操のないクラスシステムを支えるため、キャラクターの成長要素を楽しむなら虚無の戦闘から逃れることもできない――。
幼少期にいわゆる JRPG にふれて「耐性」が付かなかったのもあり、この定番セットがどれほど面白いかには僕はかなり懐疑的だ。
もちろん、今作の龍が如くでは戦闘システムになにかしらの改善があったようなのでランダムエンカウントの不快感が低減されている可能性もあるだろう。ただ、その一縷の望みにかけてフルプライスで買うにはちょっと動機が弱かった、かな。
とはいえ、春日一番と愉快な仲間たちは気に入っているし、下品なユーモアとドメスティックな社会風刺は本作でも十分期待できそうなのでタイミングがあればプレイしたい話題作だ。
Final Fantasy VII Rebirth
FF7 Rebirth は正直語るのが難しい。
英語圏の Metacritic によるとユーザーの平均評価は 8.9 ときわめて高い。去年の GOTY を総ナメしたバルダーズ・ゲート 3 の平均評価 8.8 と、おととしのエルデンリングの平均評価 8.1 を考慮するとほぼ絶賛状態といえそうだ。
問題は、両者ともに約 17000 件の評価があるのに対して FF7 Rebirth は 3 分の 1 以下の約 5000 件しかないこと。一般的には辛い評価をしがちな「とりあえず話題だからやってみた」層がだいぶ見送ったのでは?と想像させられる。
実際、前作 Remake は約 9000 件の評価を獲得して 8.1 とやや低いし、去年の PS5 専売のキラータイトル FF16 は約 12000 件を集めたうえで平均評価 8.0 に落ち着いた。それに比べると今作はあきらかにプレイされていない(売れていない、ともいう)ため、ユーザー層の厳選による偏りから評価が高止まりしていると推測される。僕の Discord 鯖でも「とりあえず話題だからやってみた」わずかなひとの評価は芳しくない。
もっとも、世界的人気 IP とはいえ、約 20 年前のリメイク作品の 4 年越しにでた 2 部作目であり、完結もさらに数年先になるため致し方ない面はある。現代のユーザーがどれくらい最後まで付き合うかは想像もできないが、気宇壮大な野心的プロジェクトなのは間違いない。
僕が Rebirth を見送ったのは前作に「ギャルゲー」以上のものを見出だせなかったのが理由だ。
たしかに、Real Time with Pause をおもわせる基本の戦闘システムはソロのアクション性とターン制集団戦闘の戦術性を確保していて興味深くはあった。しかし、敵が妙に硬いだけだったり、明確な弱点が用意されていたりと大人がプレイするものとしてその戦闘と課題構造が素直に面白かったかというと正直怪しさが残る。
映像表現は高精細ではあるもののアニメーションとしては重力が感じられず僕は評価できなかったし、ヒロインたちはたいへん美しく可愛いものの、その演出やゲーム的な使い方(たとえば、ティファとエアリスのどちらを先に助け起こすかを選ばせる)には「おっさん臭い」センスを感じて嫌な気持ちにもなった。
もちろんそれは、登場人物が現代の 3DCG 技術でよりリアルに動くからこそ感じる羞恥だろう。大剣を背負ったクラウドやガトリングガンを腕に嵌めたバレットが背広だらけの列車でちんまりと移動する姿はあまりにシュールだった。
そもそもをいえば、FF7 のキャラクターデザインの大胆な特徴付けは当時のポリゴンを前提にしたもので、それを今の 3DCG 技術で焼き直すにはある種のデザイン上の飛躍がある。今の眼でみてもそれが違和感ないものだったか、作品全体の世界観とマッチしていたかは本作に留まらないリメイク作品全般に通底する興味深い論点だろう。
リメイク繋がりでいえば、オープンワールド化の問題もある。
僕の記憶が確かなら FF7 無印はオーバーランドマップを「冒険」しながら特定のロケーションにはいって「探索」する二重の移動システムだった。今作がそれをオープンワールド化するということは、本来縮尺がことなる地理の移動を単一マップでの移動に置き換えたわけで、常識的に考えるとそのままではおそろしくテンポが悪いことになる。
そのため、オープンワールドでのロケーション間移動の退屈を低減するために原作にはないさまざまなサイドクエストやアクティビティやストーリーを盛り込んだと想像するが、それが本当に奏功したかどうかもまた、数十年前の RPG 作品をリメイクするさいに付き纏う重要な論点のひとつだろう。
こうしてみると、FF 7 Rebirth は公平な批評の眼に晒されていないのが残念なほど語りがいのある作品におもえてくる。
面白いか面白くないかに関わらず、語るべき論点がいくつもある。
これらを踏まえた批評があるならぜひ読んでみたい。もしないなら、今後数年先は書かれないだろうし、次の完結作は今よりもっとユーザー厳選が進んで気骨のあるファンしかプレイしない可能性も踏まえると、自分ではやめに向き合って文章に書き残した方がいいかもしれない。
残念だがその袋小路にもう追い込まれた気がする。
ユニコーンオーバーロード
正直、逃げているといっても過言じゃない。
今年発売された国産の新規 IP ではおそらくパルワールドに次ぐ話題作で、実際のプレイヤーからの評価も高く、開発は十三機兵防衛圏で知られるヴァニラウェア。
JRPG 調の物語にくわえて最低限の選択がプレイヤー に委ねられており、ゲームとしては部隊編成(ビルド)と作戦立案(オートバトル)を軸にした RTS “風” のもの。そのため、戦略性も戦術性もかならずしも高くはなさそうだが、デッキ構築のような頭を使った楽しみ方ができるはず――というのは本作の体験版をプレイしての感想だ。
本編購入に二の足を踏む理由はいくつかあって、ひとつは、Switch 準拠のゲームをやりたい気持ちが今はもうないこと。
当然だけども Switch には他のゲーム機や PC にくらべて技術的制約と携帯ゲーム機としての強みがある。それをどこまで活かして縛られるかはタイトル次第なものの、一般ユーザーからはあまり掘り下げては考えられていないため、本作の絶賛論調には正直身構えてしまう。
ちなみに、僕がそう考えるようになったのはティアキンへの評価の世間とのズレがある。
もうひとつは、体験版を数時間プレイするだけでもわかるほど物語が「酷い」こと。
話の大筋はいわゆる貴種流離譚で、コルニアという大国が配下の将軍の謀反に遭うものの女王の命を投げ捨てた陽動戦術により主人公である幼き息子アレインが戦火を逃れる場面からはじまる。が、このプロローグだけでも、たとえば、謀反人のヴァルモア将軍は王子と側近が逃げたことを認識しつつも追手を放たない、フェブリス大陸の中心からわずか 10 年でほかの 4 カ国を制圧して大陸統一を達成する、アレインと側近は逃れた先の島で身をやつさずに亡国の王子として生活するなど、シリアスな展開のわりには冗談のような話の雑さで進んでいく。
しかも、女王と離別する際、一角獣の指輪という王家の血筋の力によって闇の魔術的な何かを「浄化」する宝物を託されるが、そもそもそこまで追い詰められる前に女王自身がその力でやれることがあったのではと思わずにはいられなかった。
本作の話の雑さは単純にディテール不足による。もちろん、以前書いたようにその雑さを物語の「穴」としてその後のどんでん返しに利用する(実はあの場面で暗転したあとにこんなことがありました)ことも考えられるが、プレイヤーの興味関心をそこまで惹きつけてこそなので「穴」を作るあまり説得力を欠いては元も子もない。結局、何を描いて描かないかの取捨選択が(「穴」の作り方も含めて)雑なため物語や作品世界を違和感なく想像させられていないのだ。
また、主人公の幼馴染であり巨乳の美少女でパレヴィア正教の司祭というさすがに属性盛りすぎだろ!なスカーレットという仲間がいるが、彼女ひとりが敵の部隊に攫われて王子たちが助けに行く流れになったときはあまりのベタさに若干引いてしまった。
王道といえばきこえはいいが、昭和平成の少年マンガのノリをいま焼き直すにはもう少し工夫がないと僕は「キツい」がどうだろう。
とはいえ、FF7 Rebirth と同様に本作にも興味深い論点を見出せる。
それは、課題の種類と難易度だ。
本作は事前のビルドや育成が物をいうゲームと思われる。実際の戦闘では、編成可能な部隊数、出撃可能な部隊数、戦闘回数(スタミナ)、時間制限とさまざまな戦略的要素があるものの、編成を組み直したり体力やスタミナも回復できる拠点があるので戦略性は時間制限がある以外は(レベルデザイン次第だが)問題にならないだろう。
また、ユニットの数は豊富だが、基本的には有利不利が明確なためいくつかの「手札」になる部隊を用意しながら高火力の主力部隊をぶつけていけば戦術性も問題にならなそうではある。
とすると、本作の醍醐味であろうビルドや育成のインセンティブはプレイヤーの主体的な課題設定(このキャラクターを使いたい、「最強」の部隊を作りたいなど)にのみ委ねられるわけで、そうではない部分、すなわち、戦略的・戦術的なマンネリ化を防ぐために課題構造の種類と難易度をどう工夫しているかが問題になる。
つまり、ビルドの育成が面白いのは結構だけどもその試行錯誤を促す仕組みが課題構造の側からどの程度デザインされているか、という話。
もちろん、プレイスタイルの巧拙までふくめた自由度を課題構造がどこまで制限すべきかもひとつの論点だし、本作をキャラゲーとしたうえで、試行錯誤の源動力としてそのキャラたちの魅力を挙げるならそれも批評すべきだろう。実際、少年少女を無理に主役へすえたがるあまり、いかにもなとって付けた感のある「指輪」や「司祭」といったファンタジー上の設定が要請されたように僕の眼には映った。
そもそも、前作の十三機兵防衛圏もそのアドベンチャーパートがきわめて高く評価された作品だ。
新規 IP を続けざまにヒットさせている日本の開発として、両作品をプレイしてその物語やキャラクターデザインを批評・検討するのは思いのほか意義深いかもしれない。
黒神話:悟空
この作品を語るのは時期尚早かもしれない。
黒神話:悟空は、世界的ヒットをいまこの瞬間も飛ばしている今夏のビッグタイトルだ。中国の Game Science に開発されたシングルアクション RPG で、2020 年にアナウンストレーラーが発表された当初からその美麗なグラフィックと西遊記に材をとったオリエンタルな世界観、ソウルシリーズをおもわせるユニークなボスとの派手な戦闘が世界中から注目を集めていた。
中国の存在感が今ほどなかった頃からプレイ映像をだしていたこともあり、今夏に無事リリースされてホッとしたというか、だすだす詐欺ではなかったことに驚いたひともいるだろう。
実際、中国のゲーム文化は外の視点からみると独自な発展を遂げた印象が強い。
原神を筆頭とする HoYoverse 作品はいわずもがな、王者栄耀や荒野行動、PUPG Mobile、CoD: Mobile といったスマートフォンで遊べる、とくに対人戦などのソーシャル性の高い運営型タイトルの人気が広く知られている。最近のものでは放置ゲームのキノコ伝説や乙女ゲームの恋と深空もそこに肩を並べるだろう。
余談だが、現代中国文化研究者の楊駿驍は黒神話の名も挙げながら昨今の流行りを社会思想的にこう意味付けている。黒神話の発売前の発言なので「ソウルライク」の例に当てはまるかは要検討だけども。
また、中国ではマダミスを筆頭にテーブルトップのゲームも大人気なことも有名だ。世界的な話題作とはいえないものの、人格解体 Depersonalization のようなクトゥルフ神話とダイスロールをフィーチャーしたインディーゲームも出てきたことにその一端はのぞけるはず。
そうしたなかで、黒神話の存在は、外国人からみると中国産ゲームという龍の画に最後の瞳を描き入れて完成させた感を与えないだろうか?
モバイルでも、ソーシャルでも、競技志向でも、ガチャでも、Kawaii でもないその作品は、中国文学の古典と現代のクリエイターの想像力と技術力とを誇っていまの AAA 級タイトルに真正面から戦いを挑んだからこそ、世界の、なにより、中国のゲームファンから熱視線を集めることに成功して今年一のヒット作に踊りでた。パルワールドがフレンドとの長時間協力プレイの需要の高さを示したように、黒神話は中国市場の彼ら彼女らが手にすべき伝統的であり現代的なあたらしい文化の誇りへの期待の高さを示している。
その熱量がもたらすものは僕ら外国人もけっして等閑視すべきでない。
もともと、中国産ゲームのスマホフレンドリーな運営型タイトルの強さと人気にはテンセントがメッセンジャーアプリの運営者であり、さまざまなエンターテイメント分野でエコシステムを形成した統合的プラットフォーマーとして強い影響力をもっていたことが背景にある。
日中両国のゲーム研究者である鄧剣は 2010 年代を「チャンネル至上主義」の時代とし、アイテム課金制の導入により経済的勝者がすべてを手に入れる前年代の MMORPG 2.0 からその反発としての公平な競技場を提供する e スポーツタイトルへの移り変わりを踏まえ、それを端的に「テンセントの時代」とも表現している。
そうしたなかで、黒神話需要による PS5 のここに来ての販売台数増加や steam の言語別人口でながらく競っていた英語に約 4% 差を付けて(一時的にせよ)首位にたったことは、中国国内ゲーマーの多様化・マルチプラットフォーム化を象徴する歴史的な出来事といえるだろう。
それは同時に、世界の開発者側からすれば中国市場が今後ますます魅力的であり生命線にもなるのを意味することは想像にかたくない。大企業にせよ、中小規模の開発にせよ、中国国内のマスなりニッチなコミュニティなりにいかにリーチするかはもはや無視できない課題となるはずだ。想定客層がより明確になれば作品のコンセプトも雰囲気もディテールも多少ともそれに寄せられる。
当然、Game Science に出資していたテンセントがその変化を無視するわけもなく、ネットイースとともに日本を中心にアジアのゲーム開発の投資戦略を見直しはじめたことはすでに Bloomberg が報じたとおり。
ブループロトコルのモバイル版 MMORPG の開発をテンセントが今も続けているというネットの噂があるが、中止するにせよ、失敗するにせよ、成功するにせよ、黒神話:悟空のネガとして中国のゲーム史的文脈でもつ象徴的な意味はきわめて大きい。当然、日本市場も、グローバル市場も、世界のゲーム関連業界も、消費者ひとりひとりもこの変化に無関係ではいられないだろう。
本作がいわゆる神ゲーかはわからない。
しかし、中国のデジタルゲームの歴史に楔のように打ち込まれたこの作品の商業的成功には軽視すべからざる大きな意義と影響がすでにある。
悟空の喚声の奥で響いている巨大な岩盤の割れゆく音が聞こえるだろうか?
おわりに、あるいは解題
本記事は、今年の話題作をほとんどプレイせずにミリしらで語ることがコンセプト。炎上目的とおもわれそうだが裏テーマというべき狙いがある。
それは、作品にふれるまえの批評を語ることだ。
一般的にはどの分野でも作品鑑賞後に批評がなされるものだとおもわれている。とくに、作品鑑賞(プレイ)に一定の時間、体力、熱量、ゲーム内知識、ハンドスキルなどを要求しがちなデジタルゲームはその傾向が強く、エアプややり込まずに評することはことさら忌み嫌われるというか槍玉に挙がりやすい。受容者の熱中と没入を促しやすいジャンルとしてそれだけ強力な愛着と想い入れを産むのだろう。
しかし、批評を「良し悪しの区別」としてもう少し踏み込んで考えると、意外にも僕らの多くが作品にふれるまえから無自覚に批評をしていることに気付かされる。あるいはその機会に立たされている。
そう、その作品にコストを掛けてふれるかどうかの美的判断だ。
作品にふれる後押しをするものはさまざまだ。なんとなくの評判、ブーム、信頼するひとの推薦、制作者のブランド、築かれた評価、ポスターやトレーラーといった 2 次制作コンテンツなど。そうした情報を総合し、だいたいは何かひとつを決め手としてコストを掛けるかどうかの判断を下す。その事前評価の手がかりがより作品に近いものならそれはもう批評と本質的には区別が付かないだろう。
カードゲームでたとえるなら、作品にふれるまえの批評(事前評価)とは、手札が少なく、デッキのコンセプトとメカニズムの詳細は知らずに戦うようなものだ。言えることは少なく、その精度も不確かだが、そのひとの練度次第では部分への評価から全体評価の「アテ」は付けやすく、一般論として何に注意すべきかの論点はわかるだろう。
一方、作品をやり込んだあとの批評とは、十分な数の手札を握り、デッキのカードリストをみながら戦うようなものだ。戦いやすいのはいうまでもないが、それでも、いつ何にどのカードを切るかの戦術的判断はそのひとの練度に委ねられる。経験的にいうと、特定の作品やジャンルに通暁したひとほど自分の愛着からか極端な評価をしがちで、面白さにあまり結び付いていない細部を持ちあげがちだ。
だから、事前評価としての批評は、自分に何がいえて何をいえないかの線引き(プレイング)に慎重を期すなら価値あることも書ける。
それが受け容れられないとしたら、作品を語るという行為をひたすら褒めと推薦に終始した「推し」としているか、ストーリークリアを前提とした「解釈」としているか、はたまたゲームをやり込むことにとてつもなく強い愛着をもっているかだろう。
この文章はその意味でいわゆるゲームレビューと世間から見做されているものへのアンチテーゼとして書かれている。批評は、本質的に考えるならば「ゲームレビュー」の枠に留まらない。
もっとも、僕がどういう狙いで文章を書いたかなど大半の読者には関係ない話だ。
デジタルゲームと真剣に向き合う人間が作品の何をどういう風にみて「スルー」を決めるか、個人の好き嫌いとは別に「やるべき」という判断と論点がどう導かれるかを面白がってくれるといいし、それらに納得するにせよ、嘲笑うにせよ、参考にするにせよ、おのおのの議論や思考の糧になるならそれに勝ることはない。
結局批評とは、自己表現ではなく、自己の価値観を他者のまなざしに曝けだしてより大きな歴史の流れに石を投げ込むことだ。
その行為になんの意味があるか、どんな価値が認められるか、どのような波紋を描いて消えるかは書き手の与りしらぬことだろう。
書きそびれたけども、黒神話:悟空をそれでも僕がプレイしない理由は、作品の意義や影響とは別に「普通のよくあるアクションゲーム」に見えてしまったのが大きい。中国産 AAA 級シングルアクションゲームの大本命は Phantom Blade Zero じゃないかと睨んでいるが、どうだろう?