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9.11旅行記② 2001/9/11(2機目突入を目撃し逃げる)

2001年9月、大学3年生の時に初めて海外旅行に行き、アメリカ同時多発テロに遭遇した時のことを残しておくため、旅行記を書きました。

<実際の旅程>
・2001年9月10日: 夜、マンハッタンに到着
・9月11日: 同時多発テロ発生、2機目突入を目撃し走って逃げる
・9月12日: マンハッタンを観光
・9月13日: 空港閉鎖、延泊。再びマンハッタンを歩く
・9月14日: ホテルでFBIが取り調べ。ホテルを移される
・9月15日: テキサスの伯父に送金してもらい、航空券購入、カンザスへ
・9月16~17日: カンザスの友達の寮に滞在
・9月18~19日: ミネアポリス経由で帰国

・自由の女神へ向かう

2001年9月11日(火)
朝早く起きて、自由の女神に向かった。
マンハッタンの中央にあるホテルから、自由の女神に行くには、メトロで最南端まで行き、そこからフェリーで15分くらいかけてリバティ島に渡る。
私たちは、ホテルの近くの33rd Street駅でメトロカードを購入してメトロに乗り、マンハッタンの南端にあるBowling Green駅で下車し、歩いてバッテリーパーク内のStatue of Liberty Ferry乗り場に向かったのだと思う。まだ朝早いからか、辺りは静かで人気がなかった。ビルが多く、何かのオフィスなのかな、まだ出勤していないのかな、などと思った。

8時36分。
Castle Clintonで、フェリーのチケットを購入した。大人1枚、8ドル。
船に乗る列に並んで、乗船時間を待った。いつの間にか、周囲にはすでに大勢の観光客がいて、曲がりくねった長い列を作っていた。大きなTシャツを着た黒人男性が2人、路上パフォーマンスをして踊っていた。手足がとても長いのが印象的だった。

・1機目突入

8時46分。
後方で爆発音がした。振り返ると、向こうに煙が上がっているのが見えた。しかし、私のすぐ後ろには木があり、視界がほとんど遮られて、煙が出ている大元の部分は見えなかった。
火事なのか、爆発なのか、一体どうしたらこうなるのか見当がつかなかった。つま先立ちで一生懸命何が起きているのか見ようとしたが、よく見えなかった。斜めに立ち上る煙に、ふと七輪の煙を思い浮かべた。
周りの観光客も、騒ぎになるでもなく、変わらず平和に列に並んだままだ。この場に似つかわしくない音だった。そのうち、路上パフォーマンスの男性が、みんなの視線を自分たちに戻そうと、何でもないよと大声で言って、またパフォーマンスを始めた。
私は何か変だなとは思いつつも、青空に観光客の陽気なその場の雰囲気に流されて、それ以上深く考えるのをやめてしまった。旅行は始まったばかりで、これから自由の女神を見に行って、旅行が続いていくんだろうとしか考えなかった。

そのうち乗船時刻がきて、列が進んだ。フェリーは3階建てで、最上階は屋根がなかった。私たちは見晴らしの良い最上階がいいねと言って、混まないうちにと急いで3階へ向かった。
3階への階段を登りきると、一気に視界が開けて、外の景色が目に飛び込んできた。船のデッキに、青い空と海に、煙を吐く、背の高いビル。さっきの爆発音は、これだったんだ。
周りの観光客たちも、火事のようだ、などと言って、ざわざわしながら見ていた。アジア系の黒い髪の子どもが、写真を撮っていた。私も何だろうと思って、自分のカメラで写真を撮った。

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・2機目突入

9時3分。
みんなが注目していたその時、突然、ギューンと大きな音を立てて、飛行機が低空で、ものすごい速さで私の視界の左側から入ってきて、そのままドン、とビルにぶつかった。

ドン、という音がお腹に響いた。あぁ・・という人々の声があがった。ビルに、飛行機の形をした黒い穴が空いた。頭が真っ白になった。
お腹にズシッと受けた衝撃は、昔、子どもの頃、打上花火を真下で観た時のものと同じだった。直接体で何かを受け取ったようで、自分もあのビルとつながったようで、気味が悪かった。
私は、事故ではなく、意志を持って、ぶつかりたくてぶつかったのだと感じた。ものすごい速さで視界に入ってきて、この延長線上を行くとぶつかってしまう、と思っている一瞬の間に、そのままの勢いで、迷いなく一直線にぶつかっていった。気持ちが悪くなった。
中型機に思えたが、乗客は乗っていたのだろうか。いや、そうではなく、そういうことをしたい人だけが、1人か2人乗って、操縦して、引き起こしたのではないか。そうだとしても、私は、少なくとも1人は、人が死ぬところを見たのだと思った。人の姿を見たのではないが、私の視界の左端に入ってきた時にはたしかに生きていて、見ている間に、死んだのだ。それまで私は人が亡くなるところを見たことがなかった。ましてや大勢の乗客が乗っているとは考えることができなかった。
あのビルだって、朝ここへ来る時は辺りに全然人がいなかったのだから、中に1人いたって大変なことだけど、勤務時間になる前で、まだ人がたくさんいなかったかもしれない、などと、可能性が低くても、なんとか被害が少ない方に考えようとしていた。

ビルって、飛行機がぶつかっても倒れないんだ。と思った。そんなこと、考えたこともなかったけど。
これは映画なのか?と思ったが、映画だったら逆に現実にこんなことが起こるはずがなかった。そして、後になって、自意識過剰かもしれないが、観て楽しむものである映画のようだと思ったことを、不謹慎だったのではないか思った。
事故でないなら、これはテロだ、と思った。でも当時、テロとは何か、また、この事件の背景を、理解してそう思ったのではない。ニュースや映画で、こんな風に車などで建物に突っ込むテロを、見たことがある程度の認識だった。
そもそも私は、このビルがワールドトレードセンターのツインタワーだと認識していなかった。見る位置の関係で、同じ形のビルが隣に並んでいるように見えず、しかし、この2つのビルは何か関連があるから狙われたのだろうと思った。飛行機でビルに突っ込むなんて、そんな正確にできるものなのだろうか。先に近くのビルを爆発させて、煙で目印を作っておいて、それを目がけて飛んできたのだろうか、などと考えをめぐらせた。
雲のない濃い青空に、ビルの惨状が対照的だった。アメリカの青空は、色がはっきり濃くて、ほんのわずかにグレーと黄色を足したような色だ。一方、日本の空の青は、もっととても薄くて淡くて曖昧な色だ。いつも見えている自然の色が違うから、なんとなくアメリカっぽい色、日本ぽい色というのが、できるんだろうか。もしかしたら国民性にも表れるのだろうか。そんなことをぼんやり考えていた。

私たちはビルを見つめたまま、動くことができずに立ち尽くしていた。「頭が真っ白になる」とは、本当に頭の中が白一色になることを知った。どのくらいそのままでいたのか、ふと船の下を見ると、若い2人の黒人男性がこちらを見て立っていた。1人と目が合うと、男性は大声で私たちに向かって“Get off! Get off!”と言った。はっと我にかえって、何か起きているのだ、逃げなくてはと思った。この男性は、恩人だ。でも、顔も名前も分からないし、もう一生会うこともないのだろう。仮にどこかですれ違っても、分からない。
アイちゃんと、逃げようと振り返ると、誰もいなかった。私たちが最後だったのだ。乗客だけでなく、スタッフも1人もいなかった。私たちは急いで階段を駆け降りて、船の外に出た。

・メトロが止まる。改札は大混雑

逃げると言っても、どうやって逃げたらいいのか。ここはマンハッタンの最先端だから、どうしても、さっき飛行機がぶつかったビルを通り越して、逃げなくてはならない。閉じ込められているような気分になった。
アイちゃんは、早いからメトロで逃げようと言った。私は、メトロに乗ったら地上で何が起きているか分からなくなるし、さっきの爆発は真下を走るメトロに何か影響を及ぼさないのか、途中で止まったりしないのか、と考えて気が引けたが、かといって代わりにどうしたらよいか分からなかったので、私たちは、そもそもメトロが動いているかどうか分からなかったが、駅に向かった。
ホームに行くと、ちょうど電車が行ったところで、後姿を見送った。動いているんだ、と思った。幸い、すぐに次の電車がきて、座ることができた。周りの人たちは、そこに居合わせた、座席のお向かいや隣の人と、身を乗り出して真剣な表情で話していて、さっきのことを話しているんだなと思った。
発車を待っていると、アナウンスが流れた。みんなはっとして話すのをやめて、アナウンスに聞き入った。私は何と言ったか聞き取れなかったが、この電車は発車しないようだった。みんな一斉に電車から降りて、走って出口に向かった。
改札には、人があふれていた。狭くて数個しかない改札から、大勢の人が一斉に出ようと、ごった返していた。手足の長い人は、もはや改札を飛び越えていた。私は、順番を待っている間、持っているメトロカードで出られるのか、使い慣れていない改札をスムーズに通れるか、もたもたして怒鳴られたり、ドミノ倒しになったりしないかと不安だったが、流れに乗って、無事に通ることができた。

・日本人6人で逃げる

また、元の場所に戻ってきてしまった。すぐ近くの2つのビルは、煙を出し続けている。歩きかバスで、地上を逃げるしかない。
近くに、私たちと同じ大学生くらいの女の子が2人いて、「日本人ですか?」とどちらからともなく一緒になった。こういう時、同じ国の人を見つけると、自然と寄ってきて集まるようだ。
4人でいると、三、四十代の日本人の男性が、声をかけてくれて、一緒になった。みんな自分の地図を広げて、現在地とホテルを確認した。私は方向音痴で地図を見るのが苦手だが、私の『地球の歩き方』の巻頭の地図が一番見やすかったようだ。男性は歩き方の地図を見て、ワールドトレードセンターのそばを通るのは危険だから避けたいので、できるだけ大きく迂回しようと提案してくれた。そして、全員がホテルに帰れるよう、行き方を考えてくれた。男性は、落ち着いていて聡明な方で、今何を確認する必要があって、どうするかを、整然と考えててきぱき決めていった。私はこの男性を、「助教授」みたいだなと思った。
私たちが歩き出すと、後方から若い日本人男性も一緒になった。こちらは二十代くらいの、細身で背が高いジーンズ姿の、いかにも「青年」というかんじだ。私たちは6人で一緒に歩き始めた。

私たちは、ワールドトレードセンターを、右に大きくぐるっと迂回するため、マンハッタンの最先端から、右端の方を歩いた。
この辺りは、さっきまでいたマンハッタンの内側と少し雰囲気が違って、潮の香りがした。右手に、橋が見えた。
マンハッタンは狭いが、これからホテルまで歩くとどのくらいかかるのか、分からなかった。私は常に、左手に煙が立ち上るビルを確認しながら歩いた。目を離すことができなかった。

ワールドトレードセンターを迂回すると、マンハッタンの右端から、また内側に入って、北に向かって歩いた。
道路は、たくさんの人で埋めつくされていた。朝、ここに来るときは人の気配がしなかったのに、どこにこんなに大勢の人がいたのだろうと思った。心なしかみんな肩を落として下を向いて、同じ方向にぞろぞろ歩いていた。なんだか、囚人のようだと思った。元気が出るわけないか、と思った。みんな、ワールドトレードセンターから離れるため、北に向かっていた。

「助教授」の男性が、道端に停まっている車の窓ガラスに、ちりのようなものがついているのを見て、「これは、灰だね。」と言った。あのビルの燃えている所から降ってきているのだと言う。その時私は内心、そうかな?と思った。ビルの近くにいるとはいえ、あんな高いところから、燃えかすがここまで到達するのだろうかと思った。
しかし、それは「助教授」の言うとおり灰だった。後で報道で、あたりが粉塵で真っ白になっているのを見た。私は状況を把握する能力が全然ないなと思った。

ワールドトレードセンターを完全に通り越しても、何が起きているのか確認できないと怖くて、私は常に振り返りながら歩いた。
私は、振り向いたところで、1枚写真を撮った。でもアイちゃんは、周りの人の視線が、なに撮ってるんだ、撮るなという雰囲気を感じて怖いと言ったので、私はそれ以上撮るのをやめた。

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マンハッタンには、ビルがたくさんある。背の高いビルのそばを通るたび、今また飛行機が来たらと思うと、早く通り過ぎたかった。小学生の時、プールの授業で、排水溝の上を早く通り過ぎたくて、一生懸命バタ足した時みたいだ。2機で終わりなのか、また来るのか、何も分からなかった。高いビルは次々現れて、きりがなく、不安と緊張が続くので、私は若干うんざりした気持ちになった。早くホテルに辿り着きたかった。

・倒壊

突然、「キャーッ!」という女性の叫び声がして、みんな一斉に走り出した。
何が起きたのか、後ろを振り返るまでの間、-私は、もう1機来たのだと思った。目の前に、ガラス張りの高いビルがある。ここを目がけて飛行機が来たら、どうやってか、どうやっても、助からないだろう。私は今、死ぬのかもしれないと思った。
しかし、振り返ると、ワールドトレードセンターが、煙に包まれて斜めに沈んでいった。新たな飛行機が来たのではなかった。建物の隙間から、煙が左右にすごい勢いで広がるのが見えたが、何かの建物に遮られたのか、煙がこちらに押し寄せることはなかった。私は全速力で走った。誰かが、左はだめだ、とか言っているのが聞こえた。
さっきまで一緒に歩いていた4人と、はぐれてしまう。そう思った時にはもう、視界からいなくなっていた。ひとしきり走って立ち止まり、見回したが、もう見つけられなかった。幸い、アイちゃんとは、はぐれなかった。
タワーが崩れた時、アンテナのついたタワーが斜めに傾いて煙の中に沈んでいったのを見たように思ったが、先にアンテナのない南棟(WTC2)が9時59分に崩壊し、次いでアンテナのある北棟(WTC1)が10時28分に崩壊したので、私が見たのはアンテナのない南棟だったのだろうと思う。ただ、タワーが崩壊したのを見たのは1棟のみで、もう1棟はいつ崩壊したのか認識がない。

この時のことを後でアイちゃんと話したら、アイちゃんは、轟音がすごくて、怖くて振り返れなかったと言っていた。それを聞いて私は、音を何も覚えていないことに気づいた。当時、音が何も聞こえていなかった。私は目で見て確認できないことの方が、怖かった。どちらにしても、私たちは視覚と聴覚、どちらかの情報だけでいっぱいいっぱいだったみたいだ。
私は、人はいつか死ぬ。と考えることはあっても、自分が今、死ぬのかもしれない、と考えたのは、初めてだった。でも、頭で考えてそう思うに至ったからか、落ち着いて客観的なものだった。

アイちゃんと、また2人で歩き始めた。歩道では、きれいな色の服を着た老婦人が、ワールドトレードセンターの方を見て、頭を抱えて泣き崩れていた。ああ、やっぱり、そういうことが起きたんだ、と思った。
オープンカフェでは、何人かが、ビルの方を向いて座って、普通にお茶を飲んでいた。サングラスをした髪の長い女性が、足を組んで、表情を変えずに、ビルを見ながらコーヒーを飲んでいた。私は、なんでこの人たちはのんびりお茶を飲んでいて逃げないのだろうと、少し訝しく思った。
いつの間にか、道路には警察官が配備されていて、私は警察官に方向を確認しながら、後ろを振り返りながら歩いた。

・ホテルに到着

ホテルに着いたのは、お昼頃だったと思う。
やっと安全な場所に着いたと思って振り返ると、向こうで煙が上がっているのが見えた。なんだ。近いままだ。全然遠くないじゃないか。ここも、さっきカフェで座ってコーヒーを飲んでいる人がいた所と変わらない。コーヒーどころか私はここでごはんを食べてお風呂に入って寝るのだ。ワールドトレードセンターから、ミッドタウンのホテルまで、直線距離で5キロほどしか離れていなかった。マンハッタン内にいる限り、どこも同じようなものなのだなと思った。
そして、一緒に逃げた4人とは、もう会うことはなかった。でも、あそこまで来たら、きっともう大丈夫だっただろう、と思った。
あの助教授風の男性も、命の恩人だ。あの方のおかげで、私たちは無事に逃げることができた。御礼を申し上げたいが、どこのどなたか分からない。本当にありがとうございました。

部屋に戻って、テレビをつけた。さっきの事件のニュースが見たいと思ったら、どこのチャンネルでもそのことをやっていた。ニュースを一生懸命聞きとろうとしたが、速くてよく聞き取れなかった。CNNで、聞き取れる単語から、まだ4機が行方不明だと言っているように聞こえた。まだ飛行機がここに来るのだろうか、ここも危険なのだろうかと思うと、気分が悪くなって、怖くて寒気がした。
朝は雲ひとつない青空だったので、ホテルの窓から、ビルの向こうに雲が出ているのを見ただけで、一瞬、また飛行機が来て煙が!?と反応してしまうほど、神経が高ぶっていたようだ。

・つながらない電話

部屋の電話機から日本の家族に電話をかけたかったが、どういう理由であったかうまくいかず、でも幸い、ホテルの前に公衆電話があったので、そこからかけることにした。昨日、空港で公衆電話の使い方を教えてもらっておいてよかった。
フロントで、電話をかけるのに必要なクォーター(25セント硬貨)に両替してもらった。その時、フロントの若い男性に、「自由の女神の近くで何が起きたの?」と聞いてみたら、「行ってきたの?」と聞き返されたので、Yes, yesと答えると、鼻で笑って何かを言っていた。私はなんで笑われなきゃいけないんだと思ったが、後であれは、「自由の女神にこれから行くの?」と聞いていたのだと気づいた。そうだと返事したから、ムリだよ、と笑われたのだった。

アイちゃんと私で、交互に公衆電話から日本の家に電話をかけてみるが、何度やっても全然つながらなかった。
私は、国際電話よりも、アメリカ国内の方がつながりやすいのではないかと思った。
私には、テキサス州に伯母がいる。母の長姉のミナコおばさんと、伯父のグレン、そして、いとこのアンディも、同じ州にいた。ミナコおばさんは、フライトアテンダントをしていた。
伯母の家の電話番号にかけてみると、1回でつながって、コールが鳴った。女性が英語で出た。ミナコおばさんだ。
私は無事であること、そして今起こった出来事、ビルに飛行機がぶつかったのを見て、走って逃げてきたことを、堰を切ったように話した。ミナコおばさんは、私がその場にいて事件を目撃したことに驚いて、そして、「これはテロなのよ」と教えてくれた。私は思わず、「いつ解決するんですか?」と的外れな質問をした。伯母は一瞬言葉をつまらせ、それは私に変なことを言ったのだと気づかせ、でも伯母は、「これは古今未曾有の事件で、これには長い歴史があって、すぐには解決しないのよ」と丁寧に教えてくれた。
伯母から状況を聞き、さっきニュースで、いまだ4機が行方不明と聞こえたのは、聞き間違いだと分かって、ほっとした。
私は、日本に電話が通じないので、おばさんから日本の家族に無事だと連絡してほしいこと、そして、私の家族から、アイちゃんの家にも連絡してほしいと伝えてもらえるよう、お願いした。
おばさんは、今マンハッタンにいる人は全員マンハッタンから出られないから、必ず今のホテルに延泊するようにと言った。もし私がチェックアウトすると、そこに今宿がない人が入り、もともとホテルに宿泊している人たちはみんな延泊するだろうから、私が新たに泊まるところはなくなるので、今いるホテルから決して出ないように、ということだった。また、あまり外を出歩かない方がよいと言った。
通話を終えて、ホテルに戻った。フロントで延泊したい旨を伝えた。マンハッタンから出られるまで、延泊代がかかることになる。お金は足りるのだろうか。

・残像

部屋に戻って、テレビをつけた。私は寒くて、ベッドの一番上にかけてあるベッドスローにくるまったが、それでも寒くて、震えながら、ベッドに座ってニュースを見ていた。アイちゃんが、「それは靴のまま足をのせたりするカバーだから、汚れてるかもしれないよ」と言ったけど、私はそのままでいた。室温が低くて寒いのか、今になって恐怖を実感して寒気で震えているのか、分からなかった。
テレビでは、ずっとテロのことが流れていた。何度も何度も、ビルに飛行機がぶつかる映像が流れた。
でも、私の目には残像が焼き付いていて、テレビと私の間に、ホログラムのように、飛行機がぶつかる場面が延々と映し出されていた。ギューン、ドンとすごい速さでぶつかっていったから、残像も、あっという間にぶつかっては、すぐまたぶつかる様子が、ぐるぐるエンドレスで繰り返され、何千回も見続けた。だから、同時にテレビと残像のそれぞれで飛行機がぶつかるところを見ていたし、テレビで映していない時でも、常に残像でぶつかるところを見ていた。しばらくは何を見ても、対象物との間に残像が見えていた。

ニュースを見ていると、真珠湾攻撃の映像が流れて、私は戸惑った。こんなところで真珠湾攻撃の映像を見るとは思わなかった。ニュースの英語がよく分からず、何の関連があって日本がアメリカを攻撃する映像を流しているのか、意図が分からなかった。
当時、アメリカが他国から戦争として攻撃されたのは、1941年の真珠湾攻撃以来のことであり、また、「奇襲」ということで、映像を流していたようだ。
しかし、そこまで正確に考えが及ばない私は、アメリカが攻撃を受けている映像は、人々の報復感情を煽るような気がして、そしてそれが日本に関連することで、反日感情を向けられたらどうしようと思った。これ以上、不安要素が増えるのは嫌だなと思った。
また、当日か、翌日か、かなり早い段階から”war”という言葉がニュースや新聞で使われていて、私は「戦争をするってそんなに早く決まるものなの?」と思った。

私たちは疲れたので、横になってしばらく休むことにした。夜まで眠っていた。

・夜、お向かいのカフェへ

この日の夜ごはんは、あまり遠くに出歩かず、近くで済ませることにした。部屋から出ると、廊下の前に、残像が見えた。まだ何回も飛行機がぶつかっている。私は力なく笑ってしまった。どこに行っても、この残像の小さな飛行機と一緒だ。
ホテルのお向かいにカフェがあったので、私たちはそこに入った。LE RANDEZ-VOUS CAFÉという、レンガの壁のお店で、中の椅子やソファや床も、赤いレンガ色で統一されていた。カウンターには、お惣菜の入ったバットが並んでいて、男性の店員さんがいた。メニューを見て頼んだら、ないものばかり選んで、店員さんに笑われた。私は、人の笑顔を久しぶりに見たことに気づいて、ほっとした。
帰りにアイちゃんが、あの店員さんは、昨日道で写真を撮っている時に笑ってた人だよと言った。私はよく覚えておらず、そうだったかな、よく覚えているなと思った。
アイちゃんは、頭がいい。スポーツもできるし、部屋に遊びに行ったときも、壁に飾ってあった色紙の習字も上手だったし、そこに描いてあった龍の絵も上手だった。良い意味で欲がないからなのか、アイちゃんは何でもさらっとできた。

ホテルに戻り、順番にシャワーを浴びて、ベッドに入った。
でも、この夜、私は一睡もできなかった。飛行機が飛ぶのが禁止されたと聞いたが、何の音なのか、窓の外から飛行機に似た音がずっとしていて、眠れなかった。気づいたら、明け方になっていた。
でも、とにかく、長い1日が終わった。旅行初日は夜アメリカに到着して、翌朝すぐテロが起きたので、私たちはずっと、テロ直後のアメリカに滞在することになった。

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