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【エッセイ】あほ、ぼけ、かす

青天の霹靂とはこういうことをいうのだろうか。
突然夫から、末期の腎臓癌だと告げられた。舞台監督をしている夫は、コロナ禍の影響で1年以上仕事ができなかった。ようやく緊急事態宣言が解除され、仕事の依頼が入りだした矢先のことだった。「腎臓癌て、何?」普段と様子の変わらない夫がステージ4て、骨やリンパ節にも転移しているって、そんな理屈通らへん。私は頭のてっぺんから、ぎっしりと石ころを詰め込まれたみたいに動けなくなった。夫が死んでしまうかもしれない。残された時間はどれくらいあるのだろう。これから何十年も長生きしそうな私は、どうやって生きていけばいいのだろう。その日はどう過ごしたのか思い出せないが、夕飯を作っているキッチンで、お茶を飲む夫にしがみついたことは覚えている。
「お父さんやないとあかんねん。お父さんやないと」
 それ以上は言葉にならなかった。夫は、「俺は死なへんよ、ちーちゃんにはいつも笑っていてほしい」と、私の背中に手をやった。
翌朝、私は目を覚ましたがベッドから起き上がることはできなかった。土砂崩れのトンネルみたいに、のどの奥がふさがって息苦しい。目を開けても、沼の底にいるみたいにどんよりとしている。ゆっくり目を閉じると、胸の奥にしまっていた記憶が堰を切ったように溢れてきた。7年前、父が急性骨髄性白血病で亡くなった。医者の告知から2ヶ月後のことだった。そして半年後、今度は母が末期癌と診断され1年半後にこの世を去った。当時3人の息子たちの受験や反抗期、思春期と向き合いながら、両親との別れを乗り越えられたのは、夫がそばで支えてくれたからだ。10年前、自宅が全焼した時出火の原因が私だと思われ、近所の人からひどい扱いを受けた時も、夫が盾になり守ってくれた。それだけではない。ママ友たちの輪にうまく入れず悩んでいた時も、48歳で運転免許を取った時も、どんぶり勘定で家計費を使い込んでしまった時も……。手から万国旗が次々飛び出すマジックのように、私の心から優しい夫の思い出が飛び出してきた。私は深い闇の底に落ちてしまった。沈んでいるのか浮かび上がっているのか流されているのか、ただ暗闇の中を踏ん張ることもできず漂っていた。
「あほ、ぼけ、かす」思わず口をついて出た。「あほ、ぼけ、かす」取り憑かれたように繰り返す。おへその下あたりからむくむくと、マグマのようなものが噴出してきた。
「俺は覚悟できてる?」なに勝手なこと言うてるねん。「誰でも死ぬときは死ぬ?」早すぎるやろ、息子たちにも父親はまだ必要や。神さまはどこ見とんねん、天は何しとんねん。お父さん、ただ生きててもしょうがないねん、元気やないと意味ないねん。「あほ、ぼけ、かす」どうしてくれるねん。「あほ、ぼけ、かす」私、まだ覚悟できてないねん……。 
どれくらい時間が過ぎただろう、暗闇を裂いて私の目に強い光が差し込んできた。眩しくて目を開けると、日の光がベランダのガラス戸を突き抜けて、私の顔を照らしている。鼻がむず痒くなりくしゃみが出た。私は起き上がり、布団から出てベランダの戸を開けた。見上げると、太陽が真上にいる。またくしゃみが出た。外に出ようとウッドデッキに足を下ろして焼けるような熱さに飛び上がった。何も干されていない物干しざおが、風に揺られて「がたん」と鳴った。 
何やねん、これ、何やねん。私はベランダの戸を閉め寝室から出た。階段を降りながら、リビングでクッションを枕に寝転がる夫の姿が目に入った。エアコンから流れる冷たい風が、顔にあたり心地良い。夫は両手でスマホを持ち何かを見ていたが、私の足音に気づいてこちらを見た。窓の外から、パンパン、と布団を叩く音が聞こえる。
夫は私と目が合うと頬を緩め、「おはよう」と言った。






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