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余白・よはく・ヨハク

今わたしのブームは「余白」。
何も置かれていない部屋の角がお気に入りの場所になっている。
何もない場所。
そこがわたしのお気に入り。

家の中のものを減らし続けて、今までなぜ片付かなかったか理解できた。
1番の原因は単にものが多過ぎたことだ。
ものの量をぐっと減らしたら、生活が楽になった。

ものを減らして楽になる?

探さなくていい。
選ばなくていい。
迷わなくていい。
これがこんなに楽だと知らなかった。

これまでは、シャツ一枚ですら選べることを贅沢だと思っていた。
選ぶ余地がないのは寂しいと、あえて選択肢を持つためにものを増やしていた。
でも選択肢があることは決して贅沢ではなくて、選択肢がないのは決して寂しいことではないと今は理解できた。

自分のお気に入りだけに囲まれた暮らしこそ贅沢なんだ、と気づいたのはここ数ヶ月のこと。
同時に、物選びに磨きがかかってきた今日この頃だ。
時間をかけて選んだものに囲まれた生活はとても贅沢で、同じ用途のものをいくつも持たなくても満足できることを知った。

引き出しの中のあるべき姿

これまで整理整頓というと、引き出しの中をきっちりスペースが空かないように、まるで押し寿司を詰めるように詰め込んだ。
これでは取り出すのも一苦労、片付けるのにはもっと手間を要する。
だからわたしが片付ける引き出しは、全く片付けたと言えるものではなくて、1日たりとも綺麗な状態が保てなかった。
引き出しの中にも「余白」が必要だと知った。

引き出しの中のものを使えば、必ず元に戻す工程がある。
いかに戻しやすくしておくか、想像して実践、検証するのだ。
引き出しを開けたら中身が一目瞭然、というのが理想。
何がどこにあるか瞬時に判別するためにも、余白は必要なのだ。

あえて置かない場所

「ちょうど良い高さ」が「ちょうどいい場所」にあるとつい物を置きたくなる。
いい例がキッチンカウンターだ。
我が家も例外ではない。
子供たちは学校からのお便りを、このカウンターに提出する。
ハンドクリームやリップクリームなどの定位置にもなっていた。
スマホもここに一時置き。
家族全員にとって便利な場所になっていた。

でも、腰高の位置というのは大変目につきやすい。
あと30cm低ければ、気になる度合いはずいぶん下がりそうだが、それでは便利さが半減する。
それがカウンターである。

カウンターの絶妙な存在価値に気づき、まず自分の意識を変えるためにキッチンカウンターにグリーンを置いた。
すると、ここは綺麗に保ちたい場所だと意識するようになった。
仮置きしがちなハンドクリームとリップは違う場所に引っ越した。
子どもたちには、「水やりでカウンターにも水滴がつくかもしれないから」と説明し、カウンターにお便りは置かないことを約束して、代わりに別の場所にお便り提出用のトレーを設置した。
無意識に置きがちだったスマホや読みかけの本も、「ここは余白を作りたい」と置かなくなった。

心の余白

ものに囲まれた生活をしていた頃は、もののことを考えるのに心が奪われていたように感じる。
欲しいものを追い求め続けることは、心も疲れるのだろうか。
たとえ欲しい物が手に入っても、満足できずに次から次へとさらに欲しい物を探す。
服であふれたクローゼットを見ながら、「着る服がない」と買い物に出かけることも多かった。
物欲が物欲を呼んでいたようだ。

家の中に余白を作り続けていたら、心にゆとりが生まれた。
ゆったりとコーヒーを飲む時間を持てるようになり、読書の時間も自然と長くなった。
読書中に本から視線を外した時、部屋の隅の余白に小さな幸せを感じ、心が満たされることも多々ある。

心の余白は、片付けのいい産物だ。

おわりに

まだ我が家にはものが多い場所がある。
放っておくと自然とものが増えがちでもある。
もうしばらく余白を意識して暮らしていきたい。

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