「なんとなく好き」なものがあるなら、私たちはトンネルの向こうで神隠しに遭っている。
前回の記事で『千と千尋の神隠し』をフランス語で観たら、日本語で観る時よりもずっと胸が苦しくなった話をした。
その続き。
相も変わらず(この場合は、愛も変わらずの方が正しいのかもしれない)私は『千と千尋の神隠し』の余韻から抜け出せないでいる。私の魂は、トンネルの向こうで置き去りにされたらしい。
本作品の何が素晴らしいかって、それはもう沢山あるので何編にも渡ってお伝えしていきたいのだけれど、私が寝ても覚めても考えてしまうのは「ニギハヤミ コハクヌシ」ことハクについてだ。
※ここでは『千と千尋の神隠し』を観たことがある人、内容がわかる人に向けて書いています。未鑑賞の方は予めご了承ください。
愛とは、あなたの言葉がわかるということ
前回の記事でお伝えした通り、私は現在、フランス語習得に向けて日々励んでいる。とは言ってもビギナー中のビギナーなので、まだまだ分からないというか、聞き取りすらほとんど出来ていない状況である。
それなのに、どういう訳か、私の持っている数少ないボキャブラリーやフレーズに寄り添い、惜しみなくそれらを流暢なフランス語で披露してくれる登場人物がいる。それがハクだ。
コツコツ学んだ初心者向けのフレーズや単語を、ハクは何度も何度も使ってくれる。その度に私はどうしても嬉しくなってしまうのだ。あ!これ!今朝勉強した!
物語の中で、千尋が不思議の街に迷い込んでから元の世界に戻るまで、3日程度と言われている。宮崎駿監督もそう述べていた記事を読んだ記憶がある。
以前の私といえば、3日間の中で千尋とハクがお互いを想い、密かに愛を育んでいるのは正直「早すぎでは?」と思っていた。
しかし、今となっては十分にわかる。
慣れない言語、何を言っているのか分からない状況下の中で「相手の言っていることが理解できる」というだけで、こんなにも信頼感を覚えてしまう。しかもそれは、他の人の目に触れないよう隠されている。寒い日の、ポッケの中のカイロみたいに。
異国の世界で奇妙な生き物たちに取り囲まれ、両親を人質にされながらも、生きて帰るため必死に耐える千尋の不安は、フランス語が早すぎて何度も巻き戻しては再生を繰り返している私のソレなどと、比べ物にならないだろう。
そんな世界で「私はそなたの味方だ」「いい子だ」「いや、千尋はよく頑張ったよ」なんて言われてしまったら、そりゃ誰だって好きになってしまう。
いや、千尋にとってのハクは「好きな人」とか、そんな陳腐なものではなく、命に代えてでも守りたい「大切な人」なのだ。神様ではあるけれど。
そもそも、私がハク様と対面している時間は、どう考えたって千尋が異世界を経験した時間より短い。上映時間124分という、千尋が迷い込んだ3日間を遥かに上回る早さで、私は恋に落ちてしまった。
人は相手の言葉を理解できた時、そしてそれ以外は何もない孤独の中にいる時、抑えきれない程の「愛」を感じるらしい。
愛とは、あなたの言葉がわかる、ということ。
みんな、どこかで神隠しに遭っている
千尋はトンネルを抜けた後、不思議な街で起きた出来事を全て忘れてしまう。
それは共に過ごしたリンや釜爺、ハクとの思い出も、全て思い出せなくなってしまうということ。涙を堪えて立ち向かった恐怖も、思い出すことの愛おしさも、大切な人の為に勇気を出したことも、全部。
千尋にとって、みんなで紡いだ糸で作った髪留めは「どうしてかは分からない」けれど「宝物」なのだ。千尋はトンネルの向こうであったことを、思い出せない。だけどそれらは決して、無かったことにはならない。
物語の終盤、銭婆は千尋に向かってこう言う。
一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。
千尋はずっとずっと昔にハクと出会っていたこと。そのことを思い出したこと。そしてそれを再び、思い出せなくなっていくこと。
思い出せないだけで、いつまでも存在し続けるそれらの幸せを、千尋は髪留めの中に見出すのだろう。いつも何度でも。
『千と千尋の神隠し』の主題歌である『いつも何度でも』の歌詞に、こんなフレーズがある。
私たちは日々の中で「大切なもの」「輝くもの」を見失って、ついつい遠くまで探しに行ってしまうけれど、それらはちゃんと自分の中にあるのだ。
千尋にとっての髪留めのように、おにぎりのように、清らかに流れる川のように、いつだって私たちの心は「大事」の方を向いている。
千尋にとっての「川」がそうであるように、私にとっても「なんとなく気になるなあ」というものがある。
それが木漏れ日だ。
森の中を歩いている時、ドライブしている時、木漏れ日がまつげに落ちる度に、どうしても胸のざわつきが抑えきれなくなる。
素敵、とか、綺麗。なんて言葉で終わらせられないような、大事な何かを思い出さなきゃいけないような、そんなざわつきに襲われる。
何年もの間、単に「木漏れ日が好き」なんだと解釈して心の宝物箱に仕舞っていたけれど、ある疑問が頭をよぎる。
もしかしたら私にも、ハクとの出会いのようなものが、あったのではないだろうか?
私たちの記憶はとても曖昧だ。
人間は自分自身を過度に信頼してはいけない。自分の記憶なのに、こんなにも不確かなのだから。
例えば、今年の中でも、思い出す日々より、思い出せない日々の方が遥かに多いのではないだろうか。
それは当然のことだと思う。全てのことを記憶しておくには、私たちのカラダはあまりにも小さすぎる。未来に全部持っていこうとすると、莫大な量の記憶に蝕まれてしまう。
だから置いて行くのだ。
思い出す必要のない記憶は、その時、その時に置いて行かなければ、大事な記憶をいつまでも持っておけない。両手に持てる思い出の数は、いつだって決まっている。
しかし、私たちの意思とは裏腹に、記憶が操作されている日々があったとすれば?千尋のように、不思議な世界から持って帰れない記憶があったのなら?
この世界には持って帰れないのだから、私たちは何にも思い出すことができないのだ。
だけど、カラダは覚えている。その時の感覚を、感情をぼんやりと覚えている。喜びや悲しみが形になる前を、輪郭を成さずとも覚えている。
私がいつの日か出会ったのはきっと、木漏れ日の神様なのだろう。そしてその神様は、私が森の中を通り過ぎる時、いつも会いに来てくれる。柔らかくて温かな光へと姿を変えて。
木漏れ日の神様は、もしかすると、梅昆布茶をご馳走してくれたのかもしれない。私は小学5年生の頃から急に、梅昆布茶を飲む時、胸がざわつくようになった。それまで全然飲んだことなんて無かったし、どうして胸がざわざわするのかは知らないけれど。
言葉では説明できないような「幸せ」が、この世界にはいくつか存在する。そして「好き」もそこに含まれている。
どうしてかは分からないけど、好き。何となく、好き。そう思えるものが一つでもあったとするのなら、あなたもいつの日か、神隠しに遭ったのかもしれない。
みんなきっと、どこかで神隠しに遭っている。そう考えたら、人生がわくわくしてきませんか?
『千と千尋の神隠し』はどこをとっても素晴らしく美しい作品なのだけれど、ラストのお別れシーンは格別だ。
千尋とハクは住む世界が違うのだから、二度と会うことができない。
それでも彼らは「またどこかで会える?」「うん、きっと」「きっとよ」と、叶うことのない約束を胸に、前に進む。
最後まで繋いでいたい二人の手は、ゆっくりと離されていく。残されたハクの手だけが、しずかに画面に映される。
こんなにも切ないラストは、ジブリ映画の中で他にあるだろうか。
千尋とハクがその後、会うことができたのか考えると胸が苦しくなる。
恐らく、会えないだろう。ハクは川の神様であるし、その川はもう埋め立てられてしまっているのだから。
一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。
どこかの街で、清らかに流れていく川を目にした千尋の心が、どうかどうか幸福で満ち溢れていますように。
私のなかにある「木漏れ日の神様」との思い出も、いつまでも忘れませんように。たとえ思い出せなくとも。
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