『木田元 軽妙洒落な反哲学』
いい本すぎて読んでも読んでも読み足りない。何周目でもその度にまた新しい気付きと納得がある。寄稿している全員が木田元さんを尊敬していて、敬愛していて、思い出を心から懐かしんでいて、それが文章に溢れていて、読んでいてところどころ涙が出てくる。
これまでわたしにとって木田元さんといえば、日本におけるハイデガー哲学の第一人者、というイメージだった。読んだ書籍のほとんどがハイデガー関連だったし、第二次世界大戦後の混乱の中、若き木田少年がドストエフスキーとキルケゴールに耽溺した後にハイデガーに出会い、『存在と時間』を読みたい一心で東北大学に入学した、というエピソードが強く印象に残っていたからだ。けれどこの本を読んで、木田さんがハイデガー哲学をずっと自身の根本に据えていたのは間違いないけれど、日本の哲学界に与えた影響力の点では、フランスの哲学者メルロ=ポンティや、ハイデガーの師にあたるフッサール、さらにはカントやキルケゴールなど、非常に多岐にわたっているということを今更ながらに知った。中でもメルロ=ポンティは、その論文や書籍のほとんどすべてが木田さんによって日本語訳されたのだという。哲学および現象学の分野において木田さんがいかに偉大な人物であったか、読めば読むほどじわじわと伝わってくる、一生手元に置いておきたい素晴らしい本だった。
2022年4月の「100分de名著」がハイデガーの『存在と時間』だった。大学で「死への先駆」をテーマにした、目も当てられないような超低次元の卒論を教授に提出した瞬間、「もう金輪際、二度と哲学には触れまい!」と固く心に誓ったあの日からはや13年。まんまとハイデガー熱を再燃させてしまった。ハイデガー熱というか、ハイデガーに関する本を読みたい熱、と言った方が適切かもしれない。わたしは昔から情報処理能力が低すぎて、記憶力もおぼつかなさすぎて、読書から得た内容を人に語ったり文章にしたりというような妙技はできたためしがない。どんなに素晴らしい本だったか、どれほどあなたに読んでほしいと切望しているか、伝えたいのにいつだって一つも言葉が出てこないのだ。これは哲学の本はおろか、小説であっても、はたまた映画であっても、結局は同じことになる。だから大学卒業と共に、自分の思いや考えを形にするやり方で哲学と関わることには見切りを付けた。今はただ哲学、主に西欧の近代哲学に関する本を気の向くままに読み、口を挟む余地のない精緻な分析と圧倒的思考の渦の中に無心で溶けてゆきたい。そういう気持ちでいる。
そんな中、ずっと読み直したいと思っているのが木田さんの『反哲学入門』である。大学のとき、反哲学の「反」が何に対する「反」なのかすらわからないまま木田さんの著書だからと購入し、字面をなぞっただけで満足して読了リストに放り込んでいたこの本。「100分de名著」の放送後、指南役だった戸谷洋志さんの『漂白のアーレント 戦場のヨナス』に続いて木田さんの『わたしの哲学入門』『待つしかない、か』『ハイデガー・アーレント往復書簡』を立て続けに読み終えたタイミングで意を決して取り掛かろう思っていたが、図らずも神田の古本屋で本書を発見し、先に読んでしまった。得てしてこの選択は大正解だった。哲学、思想史、社会学、作家など、さまざまなジャンルで今も活躍されている方々が、木田さんの「反哲学」について独自の言葉で解説するのを読む中で、その輪郭を少しずつ、確実に、捉えていくことができた。「反」が何に対する「反」なのか。それは、プラトンの「イデア論」に端を発した形而上哲学に対する「反」であり、すなわち、自然と人間を切り離し、「イデア」「理性」「神」といった超越的な見地から人間の存在を捉えようとする西欧近代哲学(万物は「作られてある」という被制作性)に対する「反」である。ハイデガー含むニーチェ以降の哲学者たちは、その体系を批判・解体することで、アリストテレスに代表される古代ギリシアの哲学(万物は自然の一部であり、作られたのではなく自ら「生成」した)に立ち戻ろうと試みた。そしてこの後者の考え方は、空海の「一切の法はみな自然にして有なり」や、古事記の「葦牙の如く萌え騰る物に因りて成る」などに代表される日本古来の自然観と、非常に類似している。それゆえ、万物の創造主としての「神」の像に欧米ほど馴染み深くない日本人が、カントやハイデガーの哲学をわりと理解しやすいと感じるのも頷ける、と多くの学者たちが口を揃える。
なるほどなるほど、である。正直、一周目を読んだときはあまりしっかり理解できなかったけれど、二周目、さらに気に入った記事を辛抱強く読み込んでいくと、どんどん「反哲学」のなんたるかが明確になってきた。これでやっと、木田さんの『反哲学入門』を読む準備が少し整ったような気がする。
哲学との関わり方について、わたしがずっと迷っていることがある。自分の実際の人生と哲学を、どこまで結びつけていいのかという問題だ。高校三年生のときに大学で哲学を専攻しようと決めたのは、思春期にありがちな恥ずかしくなるほど単純な動機で、つまり死への恐怖だ。死にたくない、長生きしたいというような話ではなく、「死」といういずれ我が身にも襲いかかってくる現象のあまりの前触れのなさ、つかみどころのなさ、そしてそれを前にしたときの人間の為す術のなさが不気味で、悲しくて、怖くて仕方なかった。わたしは昔から、悲しいことや辛いことがあると、日記を書いたりブログを開設したりして、その思いをいったん文章に表すことで整理し、乗り越えようとしてきた節がある。だから、捉えどころのないブラックホールのような「死」という概念に、文章の力を借りてにじり寄ってみたくなった。歴史に名を残した哲学者たちの論文や書物を読んで、彼らが死をどのように捉えていたのかに触れてみたい。むしろ「死」にとどまることなく、膨大な分析と考察に裏付けられた静謐な文章の雪崩の中へ飲み込まれていきたい。そして願わくは、自分でもそれに近い文章を書けるようになりたい。そんな、実に個人的で主観的な思いから、哲学科の門を叩いた。
卒業間近、同じゼミの生徒にどうして哲学科に入ったのかと聞かれ、「頭の中に浮かんでくるのに言葉にできないモヤモヤした物事をうまく言葉にしたいから」と答えた。聞いた彼はポカンとしていた。きっと哲学を専攻する理由としてあまり十分ではなかったのだろう。もっと壮大な目標を持って足を踏み入れなければいけない学問だったのかもしれない。でもそれが真実だから仕方ない。そうそうわたしが考えていたのはこういうこと、としっくりくる文章に出会えたときの感動は何にも変えられない。そしてあれから10年以上経った今も、次から次へと湧き起こってくるくせに一瞬でこぼれ落ちて跡形もなく消え失せてしまう自分の感情や思いの丈を拾い集めて、こうして文章にできたとき、わたしは息をするのがずっと楽になる。
自分が哲学に求めること、そこから得ようとしているものが果たして正しいのか、ずっとわからないままでいた。けれど、木田さんが哲学の道に足を踏み入れる経緯を知って、著書の多くで自分の人生を語られているのを読んで、正しいかどうかということを気に悩むのはもうよそうと思った。わたしは哲学に興味があって、哲学の本を読むのが好きで、読んだ本についてああでもないこうでもないと取り止めもない文章を書くのが楽しくて仕方なくて、たとえ何の、誰の役にも立たなくても、現状はそれだけで十分なのだ、きっと。
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