アフォリズムと夜
ちょっとした落ち込み、失恋や挫折、またはニヒリズムを経験すると、何か美しく自分の存在価値を認めてくれるような絶対的な存在にすがりたくなる。
その対象は人それぞれであり、宗教であったり、学問、小説、アニメ、友人、音楽などさまざまだ。
私は最近アフォリズム、箴言をながめることに没入している。
ラ・ロシュフコーの『箴言集』やシオランの『生誕の災厄』などを眺めていると、一旦平凡に見える日本語の文字の羅列の奥深さがあるような気がして、奥深さを味わおうとする。
本当にそこに深淵さがあるのかは甚だ疑問だ。
そこに揺るぎない絶対の価値はあるのか。
上記で挙げた本を例にすれば、それぞれカシコの白人が書いた書物である。この著者が、別の人種だったら?街で見かける自分にとってモブにすぎない人物であったなら?
自分の中で作られた、さまざまな機会によって作らされたステレオタイプ(仏教でいう”業界”)が価値を決めているに違いないと、考えつく。
そこで、本を閉じ、ニヒリズムな気分に陥るのだが、夜の寂しさがこちらを覗き、同じ本を開くか、現代人らしくSNSにアイデンティティを見出すのか、自由だが、その自由さも疑いの対象となって疲れ果てる。
ついには肉体的な疲労が打ち勝ち気絶する。