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私が15でひとり日本を離れ渡英したワケ

海外生活や留学について
私は今までブログやインスタではほとんど触れてきませんでした。


私が15でひとり日本を離れ渡英したワケ


ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれたわけじゃない。
むしろその真逆のような女子でした。


消極的、人が好き、荒いことが嫌い、インドア、家族大好き、平和主義
そしてとにかく勉強が大好き。

志村けん命だった私は
心のどこかでバカなことしたい気持ちはあったのに
殻を破れないところがあった。

それは小さいころから「勉強が好き」だったということが大きく関係していた。

通知表は、生活のところは「がんばりましょう」ばかり←
片付けや整理整頓できない、時間守れないなど昔からずぼら全開なのに
勉強面はずらっと一列「大変良い」

ある意味、オタクのような。。。
いい学校に行くために遊ぶのを我慢して勉強するとかそういう感覚はゼロ。
ほかの人がゲームが好きなのと同じように
ただ、まとめて覚えて、その成果が出るのが快感だっただけ(笑)
あのころは友達と遊ぶのと勉強どっちが好きかと聞かれたら純粋に悩むほどだった。


それだけで世間一般からの目は
勉強をする=偉いとか
勉強をする=真面目だといった
ラベルみたいなものを貼られてしまい、
学級委員も男子は立候補なのに
女子は先生の推薦で私になったり、模範生徒のような扱いも受けることも多かった。

でも自分の中では疑問でいっぱい。
私が??こんなずぼらなのに??判断基準は?
ただ勉強が好きなだけなのに、なぜ??


そんな環境から
自分に殻を作ってしまった少女時代。
「いい子」を演じてるわけではないけど
ふざけちゃいけない、悪いことはしちゃいけない。
どこかでまじめな鎧を着た自分を作り上げてしまうようになっていた。




姉たちがすでに留学していたという家庭環境もあり
海外に興味を持ち始めたのはかなり早い段階だった。
小学校3年生のときだったと思う。

家に置いてあった留学生たちの体験談が特集された一冊の雑誌。
それがきっかけとなった。


それ以来お小遣いを握りしめ、
本屋に行けば、選ぶのはいつも留学性の体験談の本。
ニュージーランドにホームステイをした話や
アメリカのユタ州で羊たちのお世話をしながら学校に通った話。



あの頃の私には毒なほどに刺激的
目を真ん丸にしながらページが擦り切れるほど何度も何度も読み返しては
物思いにふけっていた。

なんて世界なんだろう。。。


そんな思いを心に秘めながらも
中学受験をし、都心にあるいわゆる有名なお嬢様学校に入学した。

そこに入って初めて思い知らされるの。


私はお嬢様じゃない

と(笑)


立ち振る舞い、言葉選び、姿勢、マナー。
そこに厳しい教育理念はすごくわかる。
ただ、そこでもまた大人たちに対しての
矛盾や疑問を抱くことになり、
最終的には嫌悪感まで感じるようになってしまったのです。


右向け右の教育。
日本には
「目上の人には逆らってはならない」
という、暗黙のルールが昔から存在する気がします。

個性のある生徒は問題視され、皆同じでなければいけない。
先生と反対の意見を伝えれば「悪い生徒」になってしまう。
そんな風潮が少なからずあった。


窮屈だ。。。

私は心のどこかでそう感じていたのだと思う。


私は中学でダンス部に入部。
2年目には学年のキャプテンになり、
文化祭のダンスは私が作ることになったことがあった。

テーマは「朝」

時間にルーズだった私にとって朝はいわば戦場w
朝起きて急いで支度をし、家を飛び出て、満員電車に乗り通学。
それを表現した激しめダンスを作ったところ、
先生からは
「あなた、テーマはわかっているの?「朝」はゆったりです、ゆったりのダンスに変えなさい」と。


家庭では反抗期というものはなかったのですが
思春期だった私は
中学の教育や大人たちに対しては
なにか悶々と不満のようなものが蓄積していて、
それまでは自分の意見を述べるということをあまりしてこなかった私でしたが、その時初めて自分の気持ちを伝えたのです。

「先生、私の朝はゆっくりではなく、はげしめなんです。創作ダンスって自由性のあるものではないのですか?」と。


結果、
その日に退部させられました(笑)


※余談
帰宅部がなかったので結局マジック部に入り、文化祭では華麗なマジックを披露しましたwwww



そしてその日の夜
母にダンス部顧問の先生から電話があり
「ひどい娘さんですね。今まで長いことダンス部の顧問をしてきましたが、私に歯向かった生徒は初めてです。どういう教育してるんですか?どういうしつけをされてるんですか?態度の悪さにあきれ返りますね」


電話を切った母は大激怒よ。
もちろん先生に対してね。

「人を否定したりする指導者のいる部活なんて、やめて正解よ。よかったじゃない!」と。

かと思えば、担任の先生には
勉強ができるというだけでやはりまた特別扱いを受けることになり
私から友達を誘い学校帰りに寄り道して先生に見つかったときも
「かわいそうに、あなたは誘われて行っただけよね?」と半ば強制的に認めされられそうになったこともあった。


何度も何度も
「私が誘ったんです」と言っても
「嘘つかないでいいの、かばわないでいいのよ」と信じてもらえず
最終的には大泣きしながら「私が誘ったんです。友達は悪くない」と訴え、その子にも泣きながら謝罪するという事態に。

それ以来、勉強することの意欲すら削がれてしまい
学年トップだった成績はあれよあれよとビリっけつになった。

そこで私はこう思ったのです。


そうだ!海外へ行こう!


個人主義の国へ行きたい。
ここにいたら個性がつぶされる。
のびのびと教育を受けたい。
いろんな文化に触れて世界中の人と仲良くなりたい!!
勉強だけじゃない、何かをきっと得ることができる。

14歳になったばかりの多感な時期にいた私は
心の隅から隅まで刺激され
日本を離れ、海外に行くことに対してわくわくしかなかった。
不安なんてひとつもなかった。


ドカーンと大爆発よね

今まで抑えてたすべてが吹っ飛んで
それから1年間、両親を説得し続けたんです。


行くならアメリカ。
そう思っていたけれど
当時留学生が殺害されるという事件があったためアメリカは敢え無く却下された。


母の知り合いがいるイギリスならと
15歳の終わりに、やっと留学の許可が下りた。


これが私が渡英を決めたワケです。

あのときダンス部の顧問の先生に退部させられてよかった、
矛盾や理不尽なことをたくさん経験できたこの中学に入学してよかった。


当時、もがいていたこと。苦しんでいたこと。
後になって考えれば
いい試練だった。いいきっかけとなった。
もし、居心地のいい学校だったら
留学という素晴らしい世界に足を踏み入れることはなかったと思うから。


世の中にはそんなのばかり溢れているんだよ。
納得のいかないこと、理不尽なこと。

辛いことは次のステージへ連れて行ってくれるありがたいものなのだと、そう感じることができるところまで
諦めず前に進むことが大切なのかもしれないです。

アメリカの思想家、ソローも言ってたよ。
すべての不幸は未来への踏み台にすぎない。って。


13年間の海外生活、本当にいろんなことがあった。
それをこの場で伝えて行きたいとおもいます。


今日もありがとう♡








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