9月5日他界したピアニスト、ラルス・フォークトのこと(享年51歳)

日本の大手メディアでも報じられましたが、ドイツのピアニスト、そして指揮者のラルス・フォークトが9月5日、亡くなりました。
享年51歳、9月8日の誕生日を目前に控えていました。

ラルスは2021年春、難治の食道ガンを患っていることを公にしていました。

私へのメールでは「僕の食道ガンは治らない。今のところ化学療法が効いているけど、それもいつまでかわからない・・・たくさん音楽をするんだ」と書かれていました。

ラルスとの付き合いは20年以上になります。
当時、20歳代の新進気鋭のピアニストとして注目を集めていました。

2003年にはベルリン・フィル初めての『レジデンス・アーティスト』に選ばれました。

その頃、日本のあるオーケストラの欧州ツアーで、ソリストのマルタ・アルゲリッチがドタキャンしたことがあります。
ラルス・フォークトが代役として推薦されたのですが、日本の人はまだ彼のことを知りませんでした。
しかしその直前にザルツブルク音楽祭で、ラルスがラトル指揮ベルリン・フィルで同じ曲を弾いていたことでみんなが安心した、ということがありました。

その時、私はオーケストラ代表と一緒にラルスのホテルに挨拶に行きました。
ウィーンのインペリアル・ホテルで、もちろんアルゲリッチ用ですからスイート・ルームが用意され、ラルスはその部屋をそのまま使うことになりました。
私が挨拶に同行していたことにラルスは驚いたのですが、挨拶が終わって踵を返したら、ラルスが後ろから私の服を引っ張って、「ねぇねぇ、すごい部屋だよね!!金ピカ!!一生こんな部屋には泊まれないねぇ!」と早口で囁いてきました。

ラルスは、本当に、「普通の人」でした。

その後、ラルスは日本にも頻繁に行くことになりました。

また、また彼が始めた「ラプソディー・イン・スクール」というプロジェクトには100人以上の音楽家が参加しています。

さらにハノーファー音楽大学での指導、また指揮者としても活動していました。

これらの活動はもちろんですが、彼が立ち上げた室内楽フェスティバル『シュパヌンゲン』は音楽界にとても大きな貢献をしたと思います。
若い音楽家にも演奏のチャンスを与えるだけではなく、奨学金も出しました。
彼らの中には、大きな成長を遂げて現在一流の音楽家として活躍している人もたくさんいます。

今年のシュパヌンゲンについては、以下をどうぞ。


室内楽は素晴らしい作品も多く、音楽家にとって、とても重要なジャンルですが、時間と労力がかかるわりに実入も少なく、効率優先の音楽事業では避けられる傾向にあります。
客も入らずチケット収入も多くないし、音楽家のギャラも低いのです。
そんなジャンルでフェスティヴァルを運営するのは並大抵の情熱と努力ではありません。

しかしラルスを支える人たちが動きました。
出身地デューレンのお医者さまをはじめとする地元の人たちです。

山間のハイムバッハという小さな町の、またその町はずれにある水力発電所がコンサート会場に選ばれました。
水力発電所はフェスティヴァル開催中、発電を止めます。

私は設立以来、行けなかった年もありますが、なるべく毎年足を運びました。
日本からの客はほとんどいませんでしたが、当時、読売新聞文化部記者だったHMさん、そして現在、大分県iichiko総合文化センター勤務の八坂千景さんが興味を持って、同行したこともあります。

シュパヌンゲンでの思い出はコンサートの他にもたくさんあります。
例えば、コンサート終了後、大雨が降り、外に出るのが難しくなった時・・・
ラルスと仲間たちは、アンコールをたくさん弾き、その後は夜中までジャズ演奏を続けました。
ジャズです、ジャズ。なんと巧いことか!!
クラシック音楽家のジャズ演奏なんてそう聴けるものではありません。

サッカー・ワールド・カップやヨーロッパ・カップの時、ドイツ・チームが得点したり勝ったりすることがネットでわかると、ステージ後方の上部に陣取る他の音楽家たちがウエーブしたり、みんなでクイーンの《We are the champions》を大声で歌ったり(これが音楽家?と思うほど、それはそれは、絶叫、がなり立てるんです!)。

ところで、ラルスはサッカー少年としても地元で有名でした。
本人はサッカー選手になるか、ピアニストになるか悩んだそうです。
結局、ピアニストになるという良い選択をしたと思います。

音楽家たちは同じホテルに宿泊し、コンサートの後にはいつもビュッフェの食事の席が用意されていました。そこでは夜中まで大騒ぎ。ホテルの人たちもよく許してくれたと思います。
そしてデザートは線香花火をつけたケーキが登場。
その時は、みんなで《Happy Birthday》を歌う(これもがなりたてる!)のが儀式でした。

この食事中、あるとき、ラルスがジャンケンで負けてなぜか脱いだことがあり、みんなで「脱ーげ!脱ーげ!」と大合唱。
どこまで脱いだのか、あまり記憶がありません(というか、見たくない!)。

また、ラルスは大の日本ファンで、相撲が大好きでした。
スター指揮者のダニエル・ハーディングと相撲の取り組みをしたことがあります。
食事中ですよ、食事中!
「らるす乃海」の形相のすごいこと!
「だにえる山」と「らるす乃海」の取り組みは「らるす乃海」に軍配が上がった記憶があります。

ラルスの日本大好きは表面的なものにとどまりませんでした。
日本語を、しかも読み書きまで勉強していたのです。
いつも楽譜と一緒に日本語の教材を持ち歩き、「日本語教えて」とつかまるとさぁ大変。簡単に解放してくれず、こちらが嫌になるほどでした。
ヴァイオリニストのクリスティアン・テツラフは「ラルスはヒマだからなぁ」と笑っていました。

ラルスは女性によくモテました。

あるコンサートの前、ホールの近くで偶然ラルスに会ったのですが、その時、彼は女性を同伴していて「僕の新しいマネージャー」と紹介されました。
その後、なぜだったのかわかりませんが、私はあまり人がいない所を通り、ドアを開けたら、そこにいたのはラルスとその女性。二人は抱き合っていて(通常のハグとは明らかに違う)、彼と目が合ってしまいました(女性は背を向けていた)。
彼は困ったような表情をしたので、そろそろと後ずさりしたことがあります。


下はラルスからプレゼントされたCDです。
日本語は彼が自分で書いたものです。
日付はなんと「2002年9月5日」。
20年後のこの日に、逝ってしまうとは・・・。


たくさんの思い出があります。

室内楽を演奏中、うまくいかないことがあると、ラルスが唇を突き出し、「うんうん」と頷く、あの仕草と表情。今でも目に浮かびます。
そして他の音楽家の不安を取り除いていた・・・。

いつも正直で誠実、感情が安定していて、いつ、どこで会っても同じ。
音楽家の中では(!)、とても珍しい人だったと思います。

そんなラルスがいなくなりました。
1年半前から「いつかこの日が来る」とわかっていたとはいえ、とても寂しい。


私は人間としてのラルスをとても尊敬していました。

そして彼の音楽、特に彼のブラームスをとても愛したし、もちろん、これからもずっと愛する。


ラルス、天国でもたくさんの音楽を!


追記:
ラルスは少しでも多くの人に多くの音楽を、とYou Tubeでたくさんの音楽を残しています。Lars Vogt とググって、聴いてみてください。



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