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【ネタバレ注意】ミレニアム世代向け冷戦モンスター映画「シェイプ・オブ・ウォーター」

先日「新感染 ファイナル・エクスプレス」のレビューで朝鮮戦争のことを書いたら今度はその背景である東西冷戦についても書きたくなったので2018年公開のギレルモ・デル・トロ監督のモンスター映画「シェイプ・オブ・ウォーター」のレビューを書きます。

私は公開当時に近所の映画館で鑑賞したのですが、観た直後に思ったのは「これはミレニアル世代のモンスター映画だ」といううことでした。

映画の舞台は1962年のアメリカ・ボルチモア。孤児で発声障害を持つ主人公の中年女性イライザは、政府の機密機関「航空宇宙研究センター」で深夜清掃員として働きながら映画館の上にある賃貸アパートで一人暮らしをしています。そんなある日、突然職場に南米で捕獲された謎の生物が持ち込まれ、彼の調査を担当していた軍人のストリックランドが左手の薬指と小指を食いちぎられる事件が発生。その謎生物に興味を持ったイライザは、彼が閉じ込められている部屋に入りその姿を直視しますが、なんと彼は魚のような体を持ちながら二足歩行をする半魚人なのでした。

もうあらすじなんて説明するのも野暮ですね。本作はデル・トロ監督の「大アマゾンの半魚人のストーリーは理不尽だ!」「真実の愛に外見は関係ないと言ったくせに『美女と野獣』のラストで野獣がイケメンになるのはおかしい!」という思いから生まれた「デル・トロ版大アマゾンの半魚人」です。あとイライザが喋れないのは「人魚姫」のオマージュですね。

ということで本作はハッピーエンドのラブロマンス映画でもあり、そのため基本的に特撮モンスター映画であるにも関わらず女性から高く評価された作品でもあります。
しかし私は、ラブロマンス以上に本作の重要な背景として「冷戦」があるのではないかと思いました。

1962年というヤバい時代

冷戦とは、第二次世界大戦後に世界を二分した、西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義陣営と、東側諸国のソ連を盟主とする共産・社会主義陣営との対立構造です。1945年、第二次世界大戦はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国などの連合国陣営の勝利によって終結しますが、その後今度は戦勝国内で対立が深まっていきました。とはいえ超大国の対立は第二次世界大戦終結以前から存在し、さらにイデオロギーの対立はロシア革命まで遡るのですが、近現代史的には1945年2月のフランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ヨシフ・スターリン(ソ連)、ウィンストン・チャーチル(イギリス)によるヤルタ会談から相互不信が深まったとされています。
本作の時代設定は前述のとおり1962年と、冷戦が始まってから17年後の時代ですが、この年はアメリカだけでなく世界の近現代史に於いても非常にヤバい時代でした。「冷戦」で「1962年」で「アメリカ」ときたら、あと一歩で核戦争勃発&世界滅亡だった「キューバ危機」のあった年です。加えてアメリカはベトナム戦争中でもあり、この年の1月にはベトコン対策として特殊部隊のネイビーシールズが結成され、さらに冷戦の対立構造の中で東西の開発競争も激化。同年2月にはマーキュリー計画の一環で有人宇宙船フレンドシップ7が打ち上げられ地球周回を記録、その直後に西側の欧州12か国共同で欧州宇宙機関が創設されます。この時代、この状況で主人公イライザの職場が政府機関の航空宇宙研究センターで上司が軍人、実にタイムリーです。

1962年のミレニアル世代

こんな時代のアメリカのこの状況下で、家族もなく、障害者で、仕事は深夜の清掃員なんて、イライザは負け組のド底辺もいいところ。ところが本作のポイントは、登場人物の中で本当に豊かで充実した暮らしをしているのがこのイライザであることです。確かにイライザは声を出せず、アラフォーで結婚もしておらず、恋人もおらず、賃貸アパートに一人暮らしですが、だからといって決して孤独な人ではありません。彼女は手話というノンバーバルなコミュニケーション手段で他者と繋がり、音楽を愛し、ダンスを愛し、映画を愛し、大家の映画館の主とも仲が良く映画のタダ券をもらい(うらやましい!)、隣に住むゲイのイラストレーター・ジャイルズとはほぼルームシェア同然にお互いの部屋を行き来し、職場の同僚の黒人女性・ゼルダとも10年組んでいるほどウマが合っています。
1962年当時は、アメリカでも女性はなるべく早いうちに結婚し、結婚後は主婦になるのが良しとされており、学校でも職場でも白人と黒人が分けられているのは当たり前、それどころか白人と黒人が住んでいるエリアも行く店も分かれており、ゲイに至ってはリンチ殺人されても不思議ではない時代でした。そんな時代に、障害を持ちながらも仕事に就き、黒人と一緒に働き、ゲイの隣人と仲良くする生活がいかに先進的か。また、彼女が愛する音楽やダンス、映画は、記録媒体や再生ハードはあれど基本的に「形がないもの」で、他者と共有することで真価を発揮する文化です。以上のことから、現代との”ある共通点”が見えてきます。

・ノンバーバルなコミュニケーション手段を駆使する
・「所有」ではなく「共有」できるものを愛好する
・相手の人種や性的志向を気にせず付き合う
・世間一般の価値観や世間体に囚われないライフスタイルを送る

これらは全て「ミレニアル世代」の特徴と一致しています。ミレニアル世代とは、2000年代に成人あるいは社会人になった世代のことを指し、日本では氷河期世代~ゆとり世代~さとり世代がこれに該当します。大人になる頃にインターネットが普及した最初の世代で、周囲にインターネットがあるのが当たり前だったためITリテラシーが高く、多様な価値観を受け入れ、所有に執着せず、むしろ境界を越えた他者との繋がりや共有を重視する傾向があるとされています。本作の設定は1962年でインターネットはおろかデジタル機器も登場しませんが、手話というノンバーバルなコミュニケーション手段は、現代に例えるならスタンプを多用するメッセージングアプリや、Instagramのような画像・動画共有SNS、Tik TokのようなショートムービーSNSに相当するかもしれません。本作は1962年を舞台としながらも、主人公をミレニアル世代的にすることで「現代のリアル」を描いた作品と言えます。

旧世代の勝ち組という「被害者」

一方、イライザと対になるキャラが彼女の上司で軍人のストリックランドです。彼は本作のヴィランではありますが、同時に最も悲惨な生活を送っている被害者でもあります。彼は軍人という公務員で、航空宇宙研究センターの管理職で、街の郊外に一軒家を持ち、家では美人な嫁とかわいい子供が待っており、一見幸せな勝ち組のように見えます。しかしそれが映し出されてからわずか数分で、実は彼の生活を彩っているもの全てがただの重荷でしかないことが見えてきます。家は買ったばかりだからローンが残っているだろうし、子供はまだ小学校低学年くらいだろうから大学進学までまだ相当ある、なのに嫁は新車が欲しいとおねだりし、おまけに徹夜で働いて帰ってきた旦那に朝っぱらから迫ります。まずは旦那を寝かせてやれよ!でも良き夫であらねばならないストリックランドは嫌とは言えず嫁の相手をするのです。ヤッてる最中、ストリックランドは嫁の口を塞いで「喋るな」と言いますが、私には「もうこれ以上俺を追いつめないでくれ」と懇願しているように見えました。そして職場に行けば、さらに上の上司に「ぜんぜん研究成果ねえじゃねえか!さっさと冷戦でロシアに勝てるだけのもん何か出せ!」とプレッシャーをかけられますが、釈明も弁解もできるわけがありません。だって冷戦真っ只中で、上司はさらに「国家」という抗いようのない大きな存在にプレッシャーをかけられているのだから。もう冷たかろうが熱かろうが戦争に勝者なんていない、みんなが抑圧される被害者となるのです。そんな状況で南米から半魚人が来てこれはいける!と思ったら指を食いちぎられ、部下のホフステトラー博士は実はロシアのスパイ。なんだこの踏んだり蹴ったり!
イライザがミレニアル世代ならストリックランドは旧世代のメタファーです。公務員で、職場で責任ある地位におり、結婚して子供もおり、家を所有し、嫁のおねだりに従う形で新車も買う。でも本人は実はそれらに何の愛着も持っておらず、むしろそれらを所有・維持していくための重圧がのしかかります。

力の象徴としてのキャデラック

ここで注目すべきは、彼が買った車がキャデラック・シリーズ62クーペだったことです。

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キャデラックはイギリスのロールス・ロイスやドイツのメルセデス・ベンツなどと並ぶ高級車ブランドで、多数のブランドを擁するGM傘下の最上級に位置し、各国の王侯貴族から政治家、セレブ、果てはマフィアまでが愛用しました。とりわけ1950~60年代はキャデラックの絶頂期で、現在の高級車では考えられないほど近未来的でクールなデザインの車がリリースされました。ストリックランドが購入したのはその名のとおり1962年リリースのシリーズ62ですが、その3年前にリリースされたシリーズ59がもう最高オブ最高!

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この特長的なテールフィンはジェット機とロケットをイメージしてデザインされたそうです。こんなぶっ飛んだデザインを富裕層向けの高級車に採用したキャデラックも凄いし、それが実際売れたのだから良い意味で当時の金持ちの頭はどうかしています。今見てもレトロフューチャー感があって最高にカッコ良い!
この59に比べたら62は街中で乗っても大丈夫なデザインではありますが、それでも「古き良きアメリカ」の気品が漂うクールな車です。しかしこれを購入したストリックランドは、以後通勤時にそれに乗るものの折角の美しいフォルムをロクに眺めることもしません。そもそも彼はキャデラックというブランドにも、GMというメーカーにも興味がなく、ただなんとな~く目についた店に入り、カーディーラーの「これは車輪がついたタージ・マハルですよ!」「キャデラックは成功者が乗る車ですよ!」という巧みなセールストークに乗せられて購入を決め、「成功者が乗るキャデラックに乗っている自分」に満足して笑顔になります。彼が買ったのはキャデラックという車ではなく、「成功者が乗る車」という力の象徴でした。
なお、後半に彼は朝鮮戦争に派兵され、戦場で軍功を挙げて現在の地位を獲得した努力の人だったことが台詞から明らかになり、頻繁に聖書を引用することから信心深い人であることが分かります。彼は敵役というより、当時の価値観や世間体における「まともな人」という呪いをかけられた被害者と言った方が適切でしょう。こうした、自他が設定した「こうであらねばならない」にがんじがらめになってヘトヘトになっているヴィランといえば、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のイモータン・ジョーもこれに相当しますが、皮肉にも彼が乗る車もまたキャデラックなのです。

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イモータン・ジョーの愛車「GIGAHORSE」は、1959年にリリースされた初代キャデラック・ドゥビルを2台使ったモンスタートラック。終末世界で同じ物を複数所持していること自体が富と権力の象徴で、ボディを二段重ねにしたうえに同じくGM傘下のシボレーのV8スーパーチャージャーエンジンも2基使用し合計V16エンジンという狂った仕様です。ちなみにドゥビル(DEVILLE)はフランス語で「都市、街」を意味する単語なので、シタデルという街を支配するイモータン・ジョーの愛車にピッタリですね。

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のイモータン・ジョーも、自分で作った街を支配し、水も、食料も、人間も支配する権力者でありながら、その権力を楽しむ描写が全くなく、むしろ終始渋い面構えを崩さず次から次へと起こるアクシデントに苦慮していました。でも権力者だから誰にも愚痴をこぼせないし相談できる人もいない。それが組織を維持しなければならない「管理者」のリアルです。
しかし最後まで心情を吐露しなかったイモータン・ジョーに対し、ストリックランドは狂気に走る直前に「いつまでまともな男でいなきゃいけないんですか!」と上司に愚痴をぶちまけていました。きっとデル・トロ監督は優しい人なのでしょう。

狂気=自由

で、そんな世間体の呪いを受けていない自由人イライザは、自分の好奇心の赴くままガンガン突っ走り、種族の違いを超えて半魚人にぐいぐいアタックをかまします。そのアプローチの強行っぷりはまさに肉食系女子!

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相手は魚類ですが。

その強引さから隣人のジャイルズも同僚のゼルダもロシアスパイのホフステトラー博士をも巻き込んでいきますが、その過程で皆が強く、自由になっていきます。仕事が減ることと思いを寄せるパイ屋の若者に拒絶されること、自分の老いにおびえていたジャイルズはイライザの半魚人救出作戦に巻き込まれることで開き直りとも取れるヤケクソな強さを得て、文句を言いながらも亭主関白な家庭に甘んじていたゼルダは最後の最後に遂に旦那に反抗し、ホフステトラー博士は研究者でもなく祖国に忠誠を誓うスパイでもなく、「半魚人を死なせたくない」とただ願う一個人へと戻ります。
ここで面白いのが、このイライザに端を発する半魚人救出作戦が、チームを結成するでもなく、それどころか綿密な計画を練ったわけでもないのに、参加者それぞれの緩い繋がりのみで成功したことです。ところがまんまと半魚人に逃げられたストリックランドにはそれが分からず、最後の最後まで「ロシア側の凄い組織」の犯行だと信じて疑いません。だって彼は軍人で中間管理職という「組織」の人だから。この個人vs組織という構図も実に現代的ですが、これはデル・トロ監督の「これからは組織ではなく個人同士が繋がってどえらいことをやらかす時代だ!」というメッセージのような気がします。

終盤、逃げた半魚人達を追うストリックランドは徐々に狂気に蝕まれ、それに呼応するかのように再接合した指の化膿と腐敗が進行していきますが、皮肉なことに彼が半魚人達への憎悪を募らせれば募らせるほどモンスター化し、かつ職場と家庭の重圧からも解放され自由になっていきます。終盤、ストリックランドは腐敗し切った指を自らちぎり捨て、それを契機に完全にモンスターへと変貌しモンスターvsモンスターとして半魚人と対峙しますが、おそらくこの指は「捨てたいけれど捨てられないもの」=「仕事と家庭」の象徴だったのでしょう。彼にとっては狂気に支配されることが自由への道だったというのが悲しいですが、前述のとおり本作の時代設定は1962年の冷戦下のアメリカ。おまけに軍人で施設管理者という立場の彼が自由になるには狂気の果ての死しか道はありません。こうした追う側が狂気に支配されることで自由になり、結果善悪関係なく追う方も追われる方も双方自由という構図はロブ・ゾンビの「デビルズ・リジェクト」にも通じます。

狂気こそが自由への解放だったことを踏まえると、ストリックランドにとって半魚人は魂の救済者です。半魚人が結局何者で、なぜ生まれ、どうやって生きてきたのかは最後まで語られませんが、劇中の台詞で「南米の原住民に神と崇拝されていた存在」であったことが明かされます。半魚人は簡単に人間を屠るほどの力を持つ一方で驚異的な治癒能力も持っており、それがラストシーンの伏線となっています。これは「命を奪いもし与えもする自然」およびそれを信仰する一神教出現以前のアミニズム信仰のメタファーとも考えられますが、そうした存在が信心深いキリスト教徒に死を以て救済を与えるとはまた皮肉と風刺に満ちたメッセージです。

本作がなぜ第90回アカデミー賞で作品賞など4部門を受賞するほど高く評価されたのか?おそらくそれは1962年を舞台に現在の状況をリアルに切り取ったタイムリーな映画だったからではないでしょうか。60年代のアメリカは、冷戦とベトナム戦争の真っ最中で、50年代から続く保守的な価値観や差別を引きずりながらも、それらに捕らわれない新たな価値観や文化が爆発的に生まれ、黒人公民権運動やウーマンリブ運動が興った時代、つまり保守と革新がダイナミックに衝突した時代です。現在も、特にアメリカはトランプ大統領の誕生により時代に逆行するかのような状況になる一方、それに対抗するリベラルな活動をする人が増えているのもまた事実。そして、若者の貧困化により未婚化と少子化が進み、サブプライムローン問題で持ち家の夢が爆発四散、車社会のアメリカでさえ車を持ちたがらない人が増え、一方ではライドシェアサービスが勃興し、「大きい家を捨てて合理的なタイニーハウスに住もう」なんて番組が放送されているほど。ストリックランドが囚われていた世間体はもはや金銭的に成り立たなくなっています。こうした状況下で次に新たなムーヴメントを起こす「革新」は誰か?それこそがミレニアル世代です。本作はデル・トロ監督の「ミレニアル世代よ革命を起こせ!」というアジテーションであり、ラストシーンは「旧世代によるアメリカの理想は完全に消滅しました。なのでさっさと新しい世界に”適応”しましょう」というメッセージかもしれません。

本作が日本で公開される際、性描写があることを理由にオリジナル版にぼかし修正が加えられ、レーディングがR15+に下げられたことが批判されましたが、私はたとえそれが興行収入面での施策であっても結果的には大英断だったと思います。というのも、雑なぼかしを1か所入れるだけで高校生にも本作を観せられるようになったからです。こういう映画はミレニアル世代よりもさらに新世代となる高校生以下の若者にこそ観せ、「今自分がしている努力ははたして本当に自分が望む幸せに繋がっているか?」「自分の価値観は旧世代の古い価値観や世間体に影響されてはいないか?」を今一度立ち止まり熟考する機会を作らなければなりません。そうしてストリックランドを他山の石としなければ、彼のような哀れな人が若い世代からも生まれてきてしまうのだから。

ちなみに私は本作を観た後、人間椅子の2011年リリースのフルアルバム「此岸礼讃」に収録されている楽曲「愚者の楽園」の歌詞を連想しました。一番の歌詞はこのようなものなんですが…

何も持たないことって
きっと素敵なことさ
家や車や財産
たぶん愛もそうだろう
金の亡者たちなら
ここにうじゃうじゃいるぜ
いつも損しちゃないかと
人を呪ってばかり

持てば持った分だけ
カルマだけが増える
そうさ
騙し合い 憎み合い
まるで地獄じゃないか

愚者の楽園は きっと来る
貧者の花園は やがて来る
ハレルヤ

これはまさしく所有に執着せず共有を重視するミレニアル世代そのもの。この歌詞の世界観と「シェイプ・オブ・ウォーター」の世界観は根底では繋がっているような気がしてなりません。


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