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現現現世【短編小説】

 ────いいかい。きみはこの先。夜を願って昼を失い、朝を恐れて夜を失うのさ。わかるね? うん。でも別に怖がる必要はないさ。人生は儚い。神が与えてくれたこの計らいに感謝しよう。さあ。この夜に。乾杯!

 最悪な目覚めだった。脇の下だけでなく額や髪の毛も汗でべたべたと濡れているし、身体は寝起きにも関わらずずっしりと重たい。寝返りをうまく打てなかったのか、腰は痛みを現わしている。夢を見た気がしたが、いったい何だったのか、上手く思い出せなかった。心臓の鼓動は速い。夢の中で誰かと話していた気がする。それも親密に。さらさらしたロングの髪にぼくの手が触れた。そうだ。不確かな輪郭を思い出すように、五本の指を動かす。右手は髪の毛の柔らかな感触を覚えている様だった。でもそれ以上は思い出せない。朝の貴重な時間を、ぼくは五分もベッドの上でぼうっと惚けていることに費やしてしまった。手を伸ばせば掴めそうな位置にあった夢は、するすると手から離れて遠くへ消えてしまった。まあいい。夢を記憶しておくことにどれだけの意味があるだろう。少なくともぼくには、必修の試験で出る心理学用語の一つでも覚えておいたほうがマシなはずだった。スカイブルーのボタンダウンシャツに古着のブルージーンズを履き、ネイビー色のダッフルコートを羽織った。グレーのニューバランスを履く。春休みはすぐそこに迫っていて、学校ではできの悪い学生が補修を受けている、そんな状況だった。つまりぼくはその中の一人。

 「よう、冴えない顔してるな」
 午前中の補修をなんとか終えて食堂に向かうぼくに声を掛けてきたのは、同学年の林マサシだ。ハヤシマサシ。彼の名前は韻が踏める。ラッパーの脚韻がばっちりと四回決まったみたいに、彼は軽快なヤツだった。人付き合いの悪いぼくには貴重な友人である。。
 「目覚めが悪くてね」
 「なんだ。フロイト先生もびっくりの悪夢でも見たのかい」
 ぼくたちは共に心理学部で学んでいる学生だった。フロイトの通りに解釈するなら、ぼくの見た夢は何らかの願望充足であるらしい。半日経ってなお、無意識に、夢の続きが見たいと感じていたことに気付く。そこに確かに自分の心を動かす何かがあった。余韻はまどろみのように、青い空を覆い隠す雲のように、心を浸食している。大切な誰かがぼくの隣りにいた。心は告げている。あくまで夢だけど。我ながらどうかしている。
 「何の夢だかわからない。でも身体感覚に残っているんだ。ぼくは大切な人と共にいた。とても、胸が張り裂けそうで、ぼくはその夢を覚えていないことをひどく後悔している。そう、話していて気付いた。本当にそうだったんだ。まるで現実に帰ってきたくなかったように」
 「ハハッ、興味深いね。今夜もきみがその夢の続きを見られるよう願っているよ」
 ハヤシマサシはあまり興味深くなさそうに笑った。他人の夢が興味深いなんてことは確かにそうそう訪れないだろう。
 「夢の続きか。そうだな、ありがとう」
 意識的に夢の続きを見ることが可能なのだろうか。
 ぼくはできるだけ自然を装い、いつものように歯間ブラシをした後に電動のブラシで歯を磨いた。寝る前のストレッチの習慣も忘れずに。枕元には蓋つきのマグに注いだ水を置く。いつも通り。できるだけ同じ状況をつくった。時計は十二の針を示す。これも同じ。明かりを消して目を瞑ると、まもなく睡魔が手招きしてくるのがわかった。寝つきは良い方なんだ。


 「究極の選択ゲームをしない?」
 シャルルは言った。
 ノー、ぼくは首を横に振る。悪いけど究極の選択なんてない、人生はチョイスの連続、それだけなんだ。
 「ねえ、あなたつまらないこと言わないで。たった一問。ただのお遊びなのよ」
 ぼくたちはベッドの中にいた。シャルルが滑らかな素足をぼくの足に絡ませてくる。
 抱えていたプロジェクトの山場が過ぎ会社から夏休みがもらえた。シンガポールではどこにいても似たような毎日で退屈していたし、どこか遠くへ行こうと思い立った。ちょうどシャルルは会社を辞めて、秋からロブスターの輸出入を行う会社へ転職が決まったタイミングだった。お互いの両親には挨拶を済ませていたし(もっともぼくはサウスアフリカ出身なのでビデオ通話で父や母親戚四十六人ほどと会話しただけだったが)、婚前旅行ということで、かねてから興味があったカリフォルニアに行くことにした。最高のヴァケーションだった。人々は陽気で、オープンマインド。どこまでも広がった大地がぼくたちの心まで広げていく。狭い島国のシンガポールとは何もかもが違う。こんな日が続くといいね、とぼくたちは抱き合って笑い合った。
 「オーケー。それじゃあ聞かせておくれ。きみの究極の選択とやらを」
 「電車が進んでいる、一方はあなたへと続くレール、もう一方はわたしへと続くレール。電車は止まらないの。どちらかに進む」
 「ぼくたちは逃げることはできない」
 「イエス」
 「答えは簡単さ。ぼくが轢かれる」
 「また嘘ばっかり」
 「いいや。大切な人を失った悲しみを背負い続けて生きるほうが辛い。それともきみにはぼくの方へ続くレールをチョイスできるのかい」
 ぼくは冗談めかして彼女に笑いかけた。
 「どうかしらね」
 シャルルは含みをもった笑みを浮かべる。ぼくは彼女の頭をゆっくりと撫でてキスをした。


 目を覚ましたとき、そこはベッドの上だった。
 自分がひとりで、ここは日本で、ぼくが心理学部の学生であることを理解するのに、少し時間が必要だった。だって────となりには間違いなくシャルルがいたのに────今度は覚えていたんだ。そして、身体は理解していた。あれは本当だった。リアリティを超えた、本当に実在しているものだったと。だとしたら、今ここにいるぼく自身は何だ?
 洗面台へ向かい顔を洗う。鏡を見つめた。慣れ親しんだぼくの顔だ。日本人の、まだ大人になりきっていない顔。眉は整っているが、少し離れているのがどこか不安そうに見えたし、肉付きも良いほうではなく、やや心配になるくらい顔色は優れなかった。これが、ぼくなんだ。セーブしたゲームの続きをやるみたいに。アバターを確認するみたいな気持ちだった。体調が良くないだけなのかもしれない。だったらいいんだけど。
 頭を抱えたままぼくは学校へ向かいいくつかの授業をこなした。食堂──郊外にあるイケアのレストランほどの大きさがある──へ行き、空いている席へ座ると、またハヤシマサシが現れた。彼はフリースのオーヴァーに、カーキのチノパン、ヴァンズのスニーカーを履いていた。
 「金欠なら俺のを少し食うか?」
 「遠慮しておくよ」
 彼のトレイにはチャーハンとラーメン、六個入りの餃子に野菜炒めがぎりぎりの配置で載っていた。ぼくは紙カップに熱々のコーヒー、とても食欲はなかった。カフェインが覚醒を促すことを信じて、一口啜った。苦みはじんわりと舌の上を転がる。ハヤシマサシはぼくの向かいの席に座り、がつがつと食べ始めた。ハヤシの姿を見つめながらぼくは話し始める。
 「昨日の話だけど、続きを見たんだ。今度はしっかりと覚えている。シャルルという女性と付き合っている。ふたりでカリフォルニアにいた。ヴァカンスでね。彼女はぼくの一番大切な人だったんだ」
 「ええと、夢の話だよな」彼はチラリとぼくの方を見た。
 「そう──なんだけど、違うんだ。あそこで見たものが本当なんだ」
 「何じゃそりゃ。じゃあ──俺の前にいるおまえは誰なんだ」
 「ここが夢で向こうが現実ってことはあると思うか」
 「おまえマジか。桑山センセイの所にでも連れていこうか。興味深い研究対象だなって言うぞ」
 「いや勘弁しておく」
 「まあ──俺はわかるぜ。心理学なんてやっていると、自分がこう、たまにおかしくなっちまう時があるよな。何が普通で、何がイカレてるかなんて、基準はないんだ。医学とか法学が勝手に作っちまっただけなのさ」
 ぼくは釈然としない気持ちを抱えながらハヤシに頷いた。きっと信じてもらえないだろう。彼にまたなと挨拶して、午後の教室へと向かう。カフェインは脳に作用しているはずだった。ぼくは物質的な身体を意思をもって動かす。二本の足を歩かせて。二本の腕を振り上げて。激しいめまいに襲われる。頭と身体が分離を求めているかのように。おぼつかない足取りで大教室、後ろの方の席へと腰掛ける。世界が揺れている。抑えるように目を瞑る。息は速く、胸の音は耳の鼓膜へどくどくと響いていた。
 何で今まで忘れていたのだろう。ぼくにはシャルルといたあのカリフォルニアの夜までの記憶があった。今朝起きてからそれはずっとぼくの中にある。脳内のずっと奥で開かれるのを待っていたかのように。まるで海中に沈んでしまった玉手箱みたいに。彼女とは友人を介して知り合った。ぼくの一目惚れだった。彼女の美しさを何て形容したらいいだろう。太陽みたいに暖かく、程よく日焼けした顔で歯を見せて笑う姿は紛れもないヴィーナスだった。待てよ。逆にあれ以降の記憶は、思考のひらめきを待ってみても、集中して目をぎゅっと瞑ってみても、決して戻ってこなかった。ぼくには続きを見る為に昨日と同じようにするしか選択肢はなかった。思いを巡らせている内に、気が付けば午後の授業は終わっていたし、夕方からのコンビニのバイトの最中でもそうだった。コンビニのバイトはそもそも、不特定多数の一般の──こう言っては失礼かもしれないが、人間を観察するにはもってこいだった。幸いにしてうちのコンビニにはまだセルフレジがない。つまり、客とスタッフは何らかのコミュニケーションをする。ぼくはたまに意地悪な質問をして──この商品はワンブロック先のドラッグストアの方が安く買えるだとか──客の反応を見ては楽しんでいた。これが心理学を学ぶにあたって、何の役に立つかはわからない。しかし、何かしらの役に立つだろう。そう思っている。
 今この瞬間、東京の片隅にある何の変哲もないコンビニで、アルバイトをしている自分が嘘みたいだった。意識が突然変容したみたいに。コップの中身がコーヒーからコーラに変わってしまったみたいに。本当のぼくはシンガポールで働いている──そうだろ。手を握って感触を確かめたり、目を開いて視界を限界まで感知してみたり、自らの身体に、やあ調子はどうだいと声をかけた。身体は、まあまあだね、とは言わないものの、ぼくの言う通りに動いた。だけど、脳内のずっと奥にある記憶は開かない。いや、もしかして、ぼくの記憶はあそこまでなのか。シャルルが言ったように、あの質問は究極の二択だったんじゃないか。疑似的に、あそこでぼくは死んだ。電車に轢かれて、ぼくは死んだんだ。一度そう考えると、本当にそうでしかないような気がしてきた。
 バイトを終えて帰宅したぼくは、いつもの通り寝る前の準備を滞りなく行った。
 記憶の続きを見に、眠りについた。
けれどもその夜、ぼくは続きどころか何の夢も見ることはなく朝が訪れた。


 「ぼくにはシャルルという恋人がいました。シンガポールで暮らしていて、彼女とカリフォルニアに旅行したところまで思い出したんです」
 ハヤシマサシはぼくと桑山先生を見比べて言った。
 「先生どうです? わかるでしょ。コイツがイカレちまったってことが」
 桑山先生の研究室。先生は、うーん、と首を捻る。
 「可能性としては、きみの潜在意識が夢遊病的にさまよってしまった、多次元的な世界軸をね。あくまで仮説としてだが。量子力学的に考えるとあり得ないことではない」
 桑山先生は大学が誇る心理学の権威だった。にも拘わらず学生にはフランクな姿勢で──伸びっぱなしで白髪混じりの髪と髭に丸い眼鏡をかけている──研究室に行けばいつだって話し相手にもなってくれる。珍しいタイプの先生だ。ヒッピーかミュージシャンのような風体で先生は煙草を吹かす。
 「昨日までの自分とは違うんです。明らかに」
 ぼくは先生の眼を見る。おそるおそる。信じてもらいたかった。
 「二度、アクセスできたとして。もう一度できるかね」
 「二度あることは──三度あります。世の中の常として」
 「おい。もう一度聞くが、おまえはその──本当の事を言っているんだよな?」
 ハヤシマサシが困惑した顔を浮かべる。わかってる。ぼくだって同じように困惑しているのだ。これが本当じゃなかったら、どれだけ良いだろう。でも、これは本当のことで、現実にぼく自身に振りかかってきた出来事なのだ。桑山先生が、一つ質問を、と言う。
 「日本で暮らしている、今のきみに恋人は?」
 「いません」
 桑山先生は左手の親指と人差し指を自身の顎に持っていき、ゆっくりと髭を撫でた。何やら思案しているように目を宙へ泳がせて。
 「フロイト─ユング、辺りは勉強しているかね」
 「ええ、もちろんです」
 もしかして、先生は、シャルルがぼくの願望充足と言いたいのだろうか。ぼくはぼく自身に、ある種の理想を見せた。完璧なまでの。そう言いたいのだろうか。仮にそうだったとして──もちろん違うのだけど──それをこの二人は納得できるのか。
 ぼくは話を聞いてくれた二人に礼を言い、帰路につく。途中ドラッグストアにより買い物をする。バイトは休んだ。体調不良ということにしてある。ハヤシマサシが聞いたら嬉々として喜ぶだろう。「やっとわかってくれたか。そうだよ、きみは体調不良で、少し疲れ過ぎている」
 安物のジンを炭酸水で割って、飲んだ。乾いた喉から胃までを急速に下りながら、浸透していく。疲れと倦怠する心身に酔いが混ざっている。眠りまでは近い。明日は土曜日だ。だから何時間寝てもいい。現実を見るために、ぼくは夢の中へ潜っていく。


 もう──いいかげん起きなさい。

 ゆっくりと目を開けると、カーテン越しの光が眩しかった。女性の声が聞こえた気がしたが、部屋には誰もいなかった。当たり前だ。一人暮らしなのだから。高層マンションの三十四階、五十坪ほどの2LDKでぼくは生活している。近頃ではアジア街に顔を出すことも少なくなった。ある程度の自由出社が許されているため、打ち合わせはリモートが中心になっている。寝室の横にある一室をオフィスのようにして使っていた。必要以上にモノは置かない。寝室にあるのはベッドとサイドテーブルに、眼鏡とペットボトルの水、読みかけ本が三冊。あとはベッドサイドにある写真立て。ぼくとシャルルが並んで写っている。いつの日か、カリフォルニアの海辺で撮ったものだ。懐かしい。あの旅行から帰って以来、ぼくは彼女の幻影を追い求めている。人生最高の幸せがあったとして、それを失った後の残りの人生には一体何の価値があるだろう。時折、ふと思う。ぼくが違う時代の違う誰かに生まれ変わったとして、もう彼女以外に誰かを愛することなんてできないだろうと。カリフォルニアでの最後の夜、シャルルはぼくに謎めいた問いかけをした。その質問は、彼女が死ぬ道を選ぶか、ぼくが死ぬ道を選ぶか、といった二者択一だった。深い意味はなかったのだろう。ただのゲームだ。そのはずだった。
 次の日、シャルルは死んだ。
 窓の外には、先程と打って変わって分厚い雲が灰色の濃淡を描いて、ぼくの気持ちとシンクロしたかのように薄暗くなっていた。いかにも雨が降り出しそうだった。
 ぼくが死ぬ道もあったはずなんだ。彼女の死は偶発的だった。人の死に意味を求めるのは、残された者に起こりうる大きな出来事の一つである。ぼくだけが生き残った。そこに意味はあるのか。何らかのミーニングがあったとして、それにぼくはどう応えていけばいいのだろう。朝になって目を覚まさない恋人の隣りで、ぼくは生きることの悲しみを知った。本当に。骨の髄まで。最高の旅行で人生を終えることは、彼女にとってのハッピーエンドになったんだろうか。だとしたら、人生は結末じゃない、過程にこそ多くが宿っている。幸福も、また悲しみも。
 シャルル──。ぼくはもうきみに会えない。目を閉じて呼吸をする。仕事で出会ったヨガインストラクターに禅を教わるようになった。最近の話だ。
 「呼吸を意識することはアースとリコネクトすることなのです」と言われた。
 リコネクト。元々繋がっていた? ぼくとアースが? スケールが途方もなく大きい話のように思えた。
 「あなたは世界のすべてです。そのことを忘れているだけ。心を解き放って」
 息に集中する。インストラクターの言葉を脳は反芻してしまう。
 「あなたは世界のすべてです」
 しばらく、言葉はここにあって、後に消えた。
 世界は多元的に、有機的に、繋がりを持って、動いている。
 「あれもこれもが分断していています。情報、人、自然」問いかけは宙に舞う。「距離の問題でしょうか、はたまた時間の問題でしょうか」
 「スピードが距離を超えて時間を生んだ、そうじゃないかい?」
 ぼくはインターネットを思う。飛躍的な速度で、人々は世界とつながった。違うのか?
 「過去から未来という直線的な時間軸の中では、そうかもしれない」
 「他にも時間の流れがあるというのかい」
 「円環の時間は、常にここに」
 意識はふたたび繋がる。こどもの頃あった幾つもの選択肢。自然。人。地球。呼吸。すべては繋がっていく。呼吸に集中すると時間は消え、自らの意識が海で、思考はまるで魚のようだと気付く。繋がっている。つながっている。ぼくはぼく自身の魂が幾重にもなる世界を旅して、ここに戻ってきたのを体感する。雲の切れ間に太陽の陽が射していた。眼の裏にそれを捉えた。神々しくも柔らかく、地上を照らしていた。一筋の光だった。
 
 
 仕事をはじめようとデスクへ向かう。ノートパソコンに一通のメールが届いている。
 知らないアドレスだった。
 【無題】
 開封すると、中には意味深なメッセージが書かれていた。

 「シャルルには会えたかい」
 
 誰だ。シャルルとの事を知っている古い友人だろうか。だとしても、会えたかい、というのは何を意味するのだろう。シャルルにはもう二度と会えない。決して。
 宛先人不明のメールの文末にはURLが張られていた。ためらわずにクリックする。
 ビデオ通話が起動した。
 画面が切り替わる。こちらの音声と画面表示をオンにした。
 「誰だ」
 向こうの画面はまだ表示されていない。真っ暗な画面に対して、ぼくはもう一度問う。ほとんど罵声を浴びせるようにして。「いったい誰なんだ」
 パッ、と急に画面が表示された。そこに現れたのは見覚えのない男の顔だった。アジア系、日本人か?
 「気分はどうだい」
 男はまるでぼくを昔から知っているかのような口ぶりだった。
 パソコンの前、相手の表情を伺いながら言う。
 「最悪な気分さ」
 「セロトニンのサプリを処方してやろうか」
 男は口角を緩ませる。上半身しか見えないが黒いシャツは胸元ボタン二つ分空いていた。歳はかなり若そうだ。しかし対等に話してくるのはなぜだ。それ以上に不思議なのは男がフランクな言葉遣いでも悪い印象がしないことだ。
 「あなたはドクターなのか?」
 「医者に見えるかい? 俺はただの学生さ。でもそうだな。あながち間違ってない。俺はおまえに、対話を通しセラピーとしてセロトニンのようなサプリを処方するのが役目だ。というか、そうしてやりたいからこの画面を繋いでいるのさ」
 彼は名乗った。ハヤシマサシ、という名前だった。聞き覚えはない。
 「ミスターハヤシ。ぼくたちははじめましてだよな」
 そう言うと、画面越しのハヤシマサシは少し俯いてためらいがちに応えた。
 「あー。そう。悲しいな、俺たちのつながりを忘れてしまうだなんて」
 しかし、ハヤシマサシ、彼だけでなく、日本人の学生と付き合いがあったことはないはずで、まったく思い出せなかった。
 「ソーリー」画面の彼があまりに悲しそうに見えたので形式上でも謝っておく。嘘をついているのか。でもだとしたら何のために。ハヤシマサシの真意を探るために質問する。
 「なぜシャルルのことを知っている」
 「俺はシャルルのことは知らない」
 「どういうことだ」
 「俺は、おまえのことを知っているだけさ」
 「悪いがどうしても思い出せない。あなたのことは知らないな、ハヤシマサシさん」
 「いいや。おまえは知っている。ただ忘れてしまっているだけで」
 「何かのイタズラならやめてもらいたいね」
 「マジか。友達だろ? 悲しいな。俺はおまえの潜在意識にアクセスしてる。おまえは夢──仮にここが現実だとして──のなかでは俺と一緒に日本の大学で心理学について勉強しているただの学生さ」
 この男は急に何を言っているのだ。やはり嘘つきでしかない。何かビジネスに投資してほしいとか、そういった話だとぼくは考える。若手の支援をするのもぼくら年長者の仕事であるから、誰か人づてにぼくを頼ってきたのだろう。
 「馬鹿げた話だ。じゃあ、ジャパンにいるクラスメイトのきみは、シンガポールで暮らすぼくに何の要件が」
 「おまえを助けにきた──シャルルに、もう一度会いたくないのか」
 「シャルルは死んだ」
 ぼくは机を拳で叩いた。ハヤシマサシはかぶりを振る。
 「死んだのは──おまえだよ」
 思わずフッと笑みがこぼれた。何なんだ、コイツは。ぼくが死んだ?
 じゃあ今ここで生きている、思考しているぼくは誰なんだ。
 「悪いな。どうやらきみには精神分析が必要のようだ。シャルルの名前を出してぼくを混乱させるのも止してくれ。じゃあ──失礼するよ」
 「待て────」
 ハヤシマサシの制止を振り切ってビデオ通話を中止した。
 部屋には静寂が訪れる。
 シャルルの姿形、お気に入りのパフュームの香りも髪の柔らかさも、ぼくははっきりと覚えていた。耳を澄ませば彼女の声は聞こえたし、滑らかな肌に触れる手の感覚は鮮明だった。ただ──時間は無情に過ぎて、記憶を風化させて暗い海の底に沈殿させてしまう。覚えていること、記憶の不確かさを想う。朧げな人生を彩ってくれたシャルルに、この人生から退場してしまったあなたに、ぼくは何を贈ればいいのだろうか。愛の贈与に対する返礼を果たせずに、やみくもに幾つかの夜を過ごして来ただけだった。握った拳をゆっくりと解き、もう一度、URLをクリックしてビデオ通話を起動した。
 シャルルに、もう一度会えるなら何でもするだろう。例え嘘つきのホラ話でも、もう二度と会えないと、頭でわかっていても。
 ハヤシマサシの顔が画面上に映る。
 「よかった」
 ハヤシマサシが安堵した顔を浮かべる。

 「教えてくれ。シャルルに会いたいんだ」
 彼は頷いた。ゆっくりと口を開く。
 「──その世界を壊すんだ」
 「なんだって」
 「おまえがいる世界を壊すんだ。いいか、よく聞け。シャルルはおまえが創り出した願望なんだ。それだけじゃない。今おまえが暮らすその世界すべてがそうなんだ」
 「馬鹿な」
 「そうとしか考えられない。じゃあ逆に問う。シャルルに会わせてくれ」
 「彼女は死んだ」
 「その通り、だから厳密に言うと、俺はおまえと彼女を会わせることは出来ない、死んでいるから。だけどなシャルルは元々存在していないんだよ。もう一度言う。シャルルは、実際には存在していなかった。わかるか」
 「うそだ」
 「マジなんだ。うん、本当に、残念ながら」
 「じゃあ、ぼくの記憶の中にいる彼女は、シャルルは誰なんだ。彼女は確かにここにいるんだ。ぼくは一緒に多くの時間を過ごしていたんだぞ」
ぼくは胸に手を当てる。涙が伝い視界が霞む。悲しい。この心は確かにあるのに。あなたは確かにここにいたのに。
 「シャルルは──おまえの中にだけ、存在していたんだよ──だから俺には会えなかった」ハヤシマサシが言う。「シャルルに会いたければ、世界を壊せ」
 「意味がわからない」
 「おまえが生きている、生きていると感じているその世界を壊せ。それは全て虚像だ」
 「それで、もう一度シャルルに会えるのか」
 「会えるさ。きみが一緒に過ごした彼女に」
 「壊すって、どうやって」
 「おまえはそれを知っているはずだ」
 「わからない」
 「目を瞑り思い出せ」
 ぼくはハヤシマサシの言う事に従う。目を瞑ると暗闇が広がった。
 世界を壊して、そして、もう一度創り直すんだ────。
 ハヤシマサシの声が聞こえる。暗闇の中、シャルルの姿を思い浮かべた。思い出す彼女はいつだって笑顔だ。
 シャルル────。目に見える世界は無くなって、想像の彼女が目の前にいた。このままずっと目を瞑っていたかった。

 「さあ、そろそろ目を覚まして」
 女性の声、ああ、シャルルの声だ。
 ぼくは、意識を、自らのありったけの生命を、今ここに集中した。ぼくを呼んでいるシャルルの声を聞き逃さないように、耳を澄ませるように。


 ハヤシマサシが彼の部屋に到着した時、彼の部屋には鍵がかかっていなかった。
 「おい、いるのか。入るぞ! いいな」
 中からの応答を待たずにハヤシマサシは部屋の中へ土足で上がり込む。
 予想通り、奥の部屋で彼は眠っていた。今日は火曜日だった。何時からずっと眠っているのか。ハヤシマサシは散乱している部屋の中、テーブルの上に大量の睡眠導入剤があるのを見つけた。
 いけない。彼に駆け寄って肩を揺さぶる。
 「しっかりしろ! 目を覚ませ」
 顔に触れる。彼の身体は冷え切っていた。遅かった──しかし、彼の寝顔はとても安らかだった。良い夢でも見ているのか。首に触れると微かだが脈を感じた。生きている。
 漠然とだが、彼の身体は起こしてもらいたくない、そう訴えているように思えた。
 シャルルには会えたのか。一瞬、脳裏に浮かんだ想いを自ら打ち消す。夢の話だ。
 だけど彼は、その夢を追っていった。深追いするほどに、後戻りできなくなったのか。
 それほど魅力的な夢だったのか。
 もし自分に生涯をかけてもいい恋人がいて、夢でしか会えないとしたら?
 かぶりを振る。彼の影響で自分もおかしくなっている。そんなことあるわけないのだ。
 あるわけないことに囚われた彼を愚かだと思う。
 彼の頬を小さく叩く。
 「起きろ! 目を覚ませ!」
 世界は呼んでいるぞ。
 意識はまだきっと、旅をしている。
 「目を覚ませ。おまえがいるべき世界はここなんだよ」
 ハヤシマサシの声は空しく部屋に響く。


 目を覚ますきみは、この世界の彩りにきっと驚くだろう。
 もし、今きみが愛する人の隣りにいるならば。
 その場所は決して誰にも明け渡しちゃいけないんだ。わかるね?
 朝が来た。
 昨日と今日が繋がり出す。現実と夢とがつながりだす。
 片方だけじゃいけなかったんだ。失っていた。無意識と意識。インタラクティブな存在。
 全体性を取り戻す時、きっとあなたもここにいて。
 ぼくは、ぼくで、すべてを思い出している。

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