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許されない孤独と自分らしさ~『ザリガニの鳴くところ』

どうして本って続きが気になるところで終わっちゃうの?

先日、本の虫の長女が聞いてきた。

あぁ、ちゃんとこの子の中で物語の光景が見えているのだなぁと嬉しくなった。小説に引き込まれると、頭の中に映像が浮かび、登場人物が生き生きと動き出す。

でも小説には終わりが来る。

大人の言う”余韻”っていうやつを、彼女は”続きが気になる”と表現したのかな、と解釈した。

私もちょうど、いつまでもその世界に浸っていたくなる物語を読んでいた。
ザリガニの鳴くところ」という物語である。

<あらすじ>
物語の舞台は、1960年~70年代のアメリカ南東部、ノース・カロライナの大西洋沿いにある小さな街。その街のはずれの湿地帯で生きる少女の物語だ。主人公のカイアは、父親のDVが原因で家族が崩壊。6歳で家族に捨てられ、1人になった。誰にも保護してもらえず、それどころか貧乏人と差別されて育った。学校にも行っていない。それでも彼女は、湿地で貝を採って売ることで収入を得て、なんとか生きていく。見守ってくれたのは、街の人から差別されていた黒人夫婦だけ。やがて成長し、カイアは恋をするが、残酷にもまた一人になる。街の有名人の青年が不審な死を遂げ、物語はミステリーの要素を帯びてくる。

引き込まれる自然描写

まだ6歳で独りぼっちになったカイア。誰もそばにいてくれる人はおらず、守ってくれる人もいない。そんな彼女の唯一の家族が、湿地の自然。

湿地を抜けるとすぐに海。家のすぐそばのビーチにはカイアのくれるパンくずを目当てにいつもカモメがやってくる。湿地には、ハチドリやサギ、ワシなどたくさんの鳥が住んでいる。鳥の羽根をコレクションするのは、幼いころからのカイアの楽しみだ。

この湿地や、生き物たちの描写がとにかく鮮明で美しい。そして美しさだけでなく、生き物の持つ残酷な行動も、具体的に描かれる。余計な装飾のないリアルな表現に、著者が動物行動学者であることもうなづける。

そして、途中に挟まれる詩が、リアルな表現で伝えきれない叙情を運んでくる。読んでいるうちに、美しい自然を目にした時の静けさのようなものが、じんわりと身体にしみわたる。

現代人が失った孤独

ただ、何よりも読んでいて引き込まれるのは、過酷な状況で1人生き抜くカイアの美しさだ。そしてその美しさは、これ以上ない孤独に向き合って、手に入れたものなのだ。

哲学者の谷川嘉浩さんは、著書「スマホ時代の哲学」で、”スマホによって常時接続の世界が訪れたことで、人々は孤独を失った”という趣旨のことを書いている。

確かにすき間時間があればスマホを触ってしまうし、仕事の現実逃避にSNSを開いてしまうことも多々ある。本当はそこで、深く思考しなければならないのに。

羽根のコレクションから始まったカイアの生き物を見る視点は、孤独の中で、唯一無二のものになっていく。

誰も「いいね!」なんてしてくれない。
そもそも見せる当てのないコレクション。

彼女が創り上げてきた世界の美しさに嫉妬する。あこがれる。
こんなふうに自分だけの世界がつくれたら!(カイアの才能のすばらしさはぜひ物語を読んで体感してほしい。)

そのためには、彼女の足元にも及ばないが、こうして時々でもnoteを書いて、つたない創造を続けていくしかない。

孤独に向き合う場所

カイアが置かれた状況は過酷で、読み進めるのが辛くなるときもある。カイアが経験した孤独は、誰も経験すべきことではない。後半には彼女を守ろうとする人たちも現れる。社会からの孤立を肯定する意図は私にも、物語にもない。

それでも、ちゃんと孤独と向き合うことは、自分が自分でいるために、必要なことなのだと思う。

余談だけど、もし家族がいたら、ここまでカイアの才能が輝かしいものになったのだろうか、とも思った。母として、子どもの可能性をつぶさないようにしたい。

読み終わった今も、私の心の中には湿地の光景が広がっている。そしてそこにはカイアがいる。孤独が必要になったとき、これからきっと、心の中のカイアに会いに行くことがあるかもしれない。

小説には終わりが来る。だけど、登場人物は読んだ人の心の中でいつまでも生き続ける。いつか娘もそのことに気づく日がくるのかな。


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