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既成の学問を教えることは、「目的」ではない、ということ

子どもが大きくなってから、大学院に入って勉強を始めたという、頑張り屋の友人がいる。今は大学で教えながら、自分の研究をつづけている。

彼女のやっていることは、大学時代の専門とも全然違うし、ここ数年話を聞いていると、聞くたびにすこしずつ領域がちがってきている。

もうやりたいことをするしかないと開きなおっている、

という彼女の話を聞いて、それは彼女が、

既成の学問の枠組の中で受動的に勉強しているのではなくて、自分のやりたいことを、能動的に、手さぐりで、追求しているから

なのではないか、と思った。

ここ十年くらいのことなのか、もう少し前からか、日本の大学に、ボーダーレスな学部というものが、増えてきた。わたしが日本で所属している文芸学部というところも、リベラルアーツなんでもあり、という学部で、そういう意味では、わりと居心地が良い。

わたしも、映画があり、文学もあり、アニメもあり、コメディもあり、シェークスピアもあり、というように、自由に講義をさせてもらっている。

わたしが博士課程を修了した、イギリスの大学も、そういう雰囲気だった。いまの職場とちょっと似ていて、創作学科が有名で、ノーベル賞を取ったカズオイシグロが、クリエイティブライティング(創作)を勉強した大学である。

キャンパス内にはしょっちゅういろいろな作家が、自作の朗読とトークにやってきていたし、映画学科も強かった。

わたしは英米文学系の学部(School of English and American Studies)に所属して論文を書いていて、基本的に講義はなかったのだが、修士課程のモダニズムやポストモダニズムの授業では、プルースト(フランス)を読んだり、ジョイス(アイルランド)を読んだり、ボルヘス(ラテンアメリカ)を読んだり、村上春樹を読んだりと、まったくイギリス文学といった狭い領域に限られない授業が、行われていた。

文学は文学、なのだった。この自由さは、とても解放的だった。

わたしが通っていた日本の大学では、当時はまったくそうではなかった。国を越境するなどはおろか、演劇と詩と小説というジャンルすら、きっちり分断されており、それを侵食してはいけないことになっていた。もちろん、狭い領域に絞って研究することで、その領域について詳しく研究できる。

人間のこと、文化のこと、人生のことなどについて、自分なりの視点から勉強をしたかったわたしには、その領域主義みたいなものが、すこし息ぐるしかった。

いろいろとボーダーレスな学科ができているのは、そういう伝統の反省と見直しが行われた結果であろう。それがどういうふうに自由な学問を助長しているのか、どのように機能しているのかは、結局は個別の大学にどういう先生がいて、かれらがどのように組織されているのかということに、かかっている。なので、一般論としてそれがいいとか悪いとかは、おそらく言えない。

いずれにしても、大学や、社会人などが勉強ができる何らかの組織が、

学ぶ人々がそれぞれ、自分のやりたいことを追求する手助けができるような空間

だったらよいな、と思う。

既成の学問の枠組の中で、学生が窮屈な思いをするような、閉鎖的な空間ではなくなっていけばよい、とおもう。

学生が、勉強することで自己表現の方法を学べるような、そういう場所

であればよい。あくまでもリベラルアーツの話であるが。

型を破るためには、型を学ばなければならない。しかし教える側が、

既成の学問をきっちり教え込むのは、「目的」ではない


と認識できていたら、学びの場所はより楽しくなるだろう。

専門性のないカリキュラムがいいという意味では、まったくない。それでは何の型も学べないからだ。そこを勘違いしてはいけない。

しかし、自分が学んできた型を学生にも教えつつ、それが

自分の自由な表現を解き放つための、ステップとしてある


という認識を共有していれば、

人々が能動的に勉強するための環境を提供すること

が、できるようになるのではないか。

学問とは何なのか、教育とは何なのか、ということを、つねに考えながら、学ぶひとの自主的な成長と自己表現を助けるために、かれらが主体的に学ぶことを助ける、という視点。

ひとりひとりの学生が、自分軸を見つけることができるような開かれた環境

であることが、これからの大学に求められるあり方なのではないか。

頑張っている彼女にエールを送りながら、そんなことを考えてしまった。

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