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22「生きる」と向き合うことは止まらない。

こんにちは~。本日12月26日をもって22歳になりました。

青臭い学生生活を走り抜けて、ようやく斜に構えた思考や大人ぶって冷え切った目線も、丸くチャーミングになってきたような気がします。

改めて、いつも見守ってくださる皆さんのおかげで生きてこれました。
お誕生日、ありがとうございます♡

大学4年間、お誕生日を祝われることがどことなく怖くて、控えめに過ごしてきましたが、この1年間は自分自身を「生きる」ことに肯定的になってきたなと感じます。

今年1年間の振り返りをさせてくださいね。

「自分らしく生きる」を守るための就活

21歳の大きなトピックとしては、今年の3月に2年間以上お世話になったインターン先に入社することを決断したことがありますね。

大学3年からコツコツとはじめちゃった進路選択。起業だの、大学院進学だの~と色々揺らいでいましたが、無事に着陸しました。

私はずっとこれからも「ヒカリテラス」、生きづらさを抱えている子どもたちに「大丈夫」と言えるような経験や知恵を身に着け、還元していくことを大切にしていくでしょう。

それが「自分らしく生きる」ことの最重要ポイントなんだと就活を通して、認識することができました。

私自身、不登校や引きこもりを経験し、たくさんの大人に心配という名の絶望を植え付けられてきました。

「学校にも行けない子は将来働くこともできない」
「辛いことを我慢できない子はどこにも雇ってもらえない」
「今学校に行かないと、高校にも大学にも行けないで、働き口がなくなるよ」

きっと今でも、このように心配という名の絶望を浴びている子どもたちや、不登校・引きこもりという現状に将来の不安を抱いている子どもたちは大勢いると思っています。

そんな子どもたち(周りの大人たち)の絶望や不安を取り除けるようになりたい。だから私は「ヒカリテラス」と「実社会で何かに属し働く経験」の2つを得ることは必須条件になりました。

ただ面接の場において、私の価値観が理解されることは多くありませんでした。様々な会社を知り、面接で自分の主張を伝えることの繰り返し。

インターン先で引き続き…という形ではあるものの、理解してくれる場で働く道を描くことができました。

私が大切にしている言葉の1つに「Turn your wounds into wisdom(あなたの傷を知恵に変えなさい)」というものがあります。
私の過去も知恵として昇華し、誰かの役に立ち、いつの日か「今日まで生きてきて良かった」と思える日を願い、明日を生きていける。

私は就活を通して、生きる希望をまた1つ得ることができました。

私の生きる盾だった「法」で論文を書く

大学3年生から卒論執筆に向けて自殺対策の研究を続けてきました。そしてつい先日、卒論の修正も終わりました!(パチパチ)

私が法学部を選んだきっかけは不登校の時に知った「学ぶ権利」です。
不登校生になってから「義務教育なのに学校に来ないのは法律違反だ」ということを言われることが増えました。また学校の先生が毎日のように家にきて、学校に連れて行こうと車に乗せられることもありました。

私がおかれている状況を見かねた私のお母さんは法律を持っていき、学校と議論してくれました。その時の資料に「義務教育ではなく学ぶ権利が侵害されている」ことが書かれていて、初めて人権というものを正しく理解したのです。

(そして学校で学ぶことができなくとも、塾の先生方のご厚意で毎日お昼から勉強することができるようになりました。)

それがきっかけとなり私は法学部に在籍しているのですが、今回の自殺対策も法理論を基にして卒論を執筆しました。

憲法は国から私たち個人の権利を守るものという前提から、「自己決定権」や「生存権」を使って自殺をどう見るのか。そして法とはメッセンジャーなのではないか。そんなことを書きました。

正直、法理論の視点で書くことはとても難しかったです。なぜなら私は自殺という事象に近い立場だったから。

「自殺」がよぎる心情、何からも見放されて何も信用できない心情がわかるからこそ、「権利が守られていない」という思考に転換することには時間を要しました。

憲法学者の佐藤幸治先生は「大前提に”生きることは尊いことである”という考えがあるから、「死ぬ権利」とか「自殺する権利」とかを安易に語るべきではない」ということを書かれていますが、その考えを飲み込むには1年かかりました。笑

だって「生きることが尊い」って決めつけるなよ!という感じだし、なんで生きることを尊いって思わなきゃいけないんだよ!という感じだったので。(今もちょっと思うけど)

でも今考えれば、その叫びこそ自殺と法という関係性において重要な要素だったんだと思います。
「本来生きることが尊いなら、なんで私たちはそう思えない社会で生きなきゃならないんだろう」と。

私は卒論を書く中で、何度も「生死」について考えました。
安楽死についても考えましたし、優生思想や戦時中のことも考えました。反出生主義についても。

何度も「生まれてこなきゃ良かった」と思うことがありました。今でも「なんで生きているんだろう」と思う日もあります。

ただ「生死」「生きる」と向き合い、考え続けてきたことで、途中であきらめたのでしょうか。

生まれてきちゃった過去は変えることはできないし、ここまで図体大きくなってしまったからには戻れない。
だから「幸せに生きる権利」を守り、行使し、闘い、肯定的に生きてやるしかない。

と最近は考えるようになり、なんか図太くなりました。
もう1度、法という盾を手にしてから、これまで何でも自分を責めてきたものが、自分の責任と国の責任、他人の責任と分けて、適切に怒れるようになったのかもしれません

ただ卒業して、社会で働くようになっても、自殺対策や自殺問題、人権に関する探究活動は辞めず、「生きる」に対して貪欲に探究していこうと思います。

「なんでもない自分」でいる時間を愛す

「自殺」という思考に怯えてN高に転校してからのことを私は密かに「生まれ変わった」と表現しているのですが(恥)、生まれ変わってから何でもない自分の為に何かをすることが困難な状況でした。

平日は学校に行って、インターンに行って、勉強して。休日は勉強して、ヒカリテラスのことを進めて。限界が来たら寝て、とにかくベッドから動かない。そんな生活でした。

何か他者や世の中に貢献し、何かを残し続けなければ、私が生きていく価値なんてないんじゃないか。そんな強迫的観念に脅かされながら過ごしてきたような気がします。

特に私は努力の過程が他者からは見えにくいと思っているので、何か少しでも残さなきゃならないと必死でした。

(とは言え、どれもこれも自分を守りたいという自己都合の選択。利他主義のへったくれもありません。)

でも今年は初めて「なんでもない自分」をそこはかとなく愛し、肯定し、生きることにちょっとばかし肯定的になれました。

今年1年、ライトグリーンの手帳の中に楽しい予定や思い出を詰め込みました。

美術館や映画館、水族館のチケット。友達と撮ったプリクラ。桜の花びら。お寺のパンフレットの切り抜き。パートナーと見た空に似た色のシール。自分が心躍る1日を綴った日記たち。嬉しいときに貼ったキラキラのシール。

自分が楽しくって、愛おしくって、心躍る、きっと世の中に何かを残すことはない何気ない日々を堪能することができた1年でした。

パートナーのおかげです。いつもいつも助けてもらってます。

私は肩書きを持つことによって、「なんでもない自分」と「肩書きを持った自分」に乖離が生まれることに対して、強い不安を抱いてきました。

本当の自分を見てもらえていないような気がして。本当の自分なんて自分自身が一番わかっていないのに。

だからTwitterには「どんな活動をしているのか」なんて書きませんし、最近は「ヒカリテラスの代表」であることも書かなくなりました。
だからと言って何かが変わるわけではないけど、肩書きに当てはめた自分に成ることを辞めたくなる。でも「なんでもない自分」は価値がない気がして嫌だ。

そんなことを高校1年の頃から考え続けてきましたが、今年は「なんでもない自分」を肯定できるようになりました。

「ヒカリテラス」から距離を置くことをはじめてしましたが、ヒカリテラスの子が「ちーちゃんがいなくても、取り組める人が取り組んでいるから大丈夫だよ」と言ってくれて、ヒカリテラスは「ゆるゆるファイトの団体」なんだ、そういう形でいいんだと再認識できました。

当事者団体に然り、居場所づくりに然り、生きることに不安を抱える人たちと共にある団体に必要なことは「存在し続けること」だと思っています。

そしてロールモデルに必要なことは「そのロールモデル自身が幸せであること」だとも思っています。

そのような団体としての美学を持ちながら、ヒカリテラスとしても私としても、今を共に生きる生きづらさを抱えた人々にメッセージを送っていけるように頑張っていきたいです。

「なんでもない自分」を肯定できたことで、生きることに対して積極的に肯定的になれたことは、今年の大きな成果だと思っています。

私の好きな作家の1人に森瑤子がいて、彼女は「積極的に肯定的に生きている人は、やっぱり、毎日が華やぎ、いいことが起こっていく。」という言葉を残しています。

私のこれまでの生き方は過去という事実をどう良い解釈へと変化させるかを行動し続ける生き方でした。私はそれも悪くないと思っています。

でも私は十分頑張ってきたと思うし、少なからず大学には卒業し、諦め続けてきた社会で働く選択も掴むことができた。その他の選択肢も掴めるまでには努力をしてきた。

ならば、これからの私が持つ可能性や幸せになれる余地に焦点を当てて、積極的に肯定的に生きていく選択をしてもいいのではないかと思います。

過去の私は「大人になって幸せになれる」なんて想像ができなかった。でも、もう未来を変えることができたわけです。

これから先、もっと幸せになれるかも分からなければ、幸せなんて何かわからないけど、きっとどんな選択も私なら肯定できる、そんな自信を持ちたいと思いました。

「生きる」と向き合うことは止まらない

私はなんだかんだ「生きる」ことに執着のある人間で、日々「生きる意味」を模索し続けていると感じた1年になりました。私らしいと言えば私らしいですね。

卒論の最初に書きましたが、私自身が「自殺」という事象に近しい人間です。「死ねなかった」からこそ、今もこれからも生きることに対して「良かった」と思えないと、「死ねなかった」ことを後悔し続けると思っています。

だからこそ私にとって「生きる」と向き合うことは、とても大切なことなんです。ただ意味とか価値とかそんなことを考えると、本当に綺麗事しか語れないし「なんで生きているんだろう」と逆戻りしてしまうんです。

きっと根っこを求めるとキリがないし、きっとそこに1つの正解なんか存在しないからこそ、人は「生きる」ことにある程度の不安を持ちながら、共存し、生きているんだと思います。

不安や恐怖を取り除くことはできない。生きづらさを全部取り除くことはできないし、解決もできない。
だから自分なりに答えを見つけたり、今を熱中したり、肯定できることへ進んだり、と折り合いをつけて生きていると思っています。

私もこの1年を通して、過去が起因したある程度の生きづらさはきっとこれからも付き合わなきゃならないんだと感じ、その生きづらさとどう付き合うか、どの距離で向き合うかに思考を変化させていきました

過去をどう肯定できるように努力するかよりも、今や未来をどう生きていきたいか。

そう考えていくことで、これまでの努力も肯定できて、少しばかり「これからが楽しみだな」と思えるようになりました。

結構、進歩したんじゃないか…??

私はようやく、「生きる」に前向きになってきたところです。

12月26日。

高校3年の誕生日は祖父が入院している京都の病院へ向かう車で過ごしました。
それ以降、自分の誕生日がどことなく怖い、祝われるなんておこがましいんじゃないかと不安になっていました。

今はある程度の不安は払拭できたし、歳を重ねることができたことは過去の私にとって未来を作ることができたという認識へと変化することができました。

ただ改めて、私が歳を重ねることができたの私自身だけの力ではなく、大切に見守ってくれる人や、生きる希望を与えてくれた人、このままでは良くないと思わせてくれた世の中のおかげです。

無知だった過去の私は、自分自身に起きたあらゆること、苦しくて辛くて「生きていたくない」と思うこと全て、自分自身が悪いんだと思い込むしかできませんでした。

SOSが届かないのは私が伝えることが下手なせい、学校に連れていかれるのは学校に行けないせい。

でも学ぶことで自分のせいじゃないと気付くことができたんです。

この1年、たくさん学んできたことで、自分が過去に負った傷に絆創膏を貼ることができました。そして、これから知恵で生きづらさを抱えている人がこれ以上傷を負うことがないように、更にヒカリテラスを頑張りたいと思えました。

私がこのような気持ちになれたことも、導いてくれた色々な人がいたからです。私は人にも環境にも運にも恵まれていますね。

嬉しいな。

今年で22歳になりました。4月からは社会人になります。
想像できないことばかりの生活が始まります。

ちょっと生きていけるか不安にもなりますが、きっと大丈夫。
自分なりの「幸せに生きる」を探して、今日も明日も積極的に肯定的に生きていこうと思います。

お誕生日を無事に迎えさせてくれて、ありがとうございました。

ではでは。




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