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「コロナと共にある今、どう生きればいいですか?」 恐山の禅僧 南直哉さんに伺いました(1/4)

【ちょっと長いマエセツ(読むのが面倒な方は飛ばしてね)】
2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大が広まる中、お話を聞いてみたいと思った方がいました。
恐山の禅僧、南直哉(じきさい)さんです。南さんは、永平寺で20年過ごされた後、恐山善提寺の院代(住職代理)と、福井県霊泉寺の御住職を務められています。

南さんのご活動のファンだった私は、2017年、ご著書『禅僧が教える心がラクになる生き方』(アスコム刊)を企画・編集協力させて頂きました。おかげさまでたくさんの方に手にとって頂き、発行部数は11万部となりました。

「自分を大切にするのはやめる」「生きる意味など見つけなくてもいいい」「人生を棒に振るくらいの気持ちで生きれば、ちょうどいい」…。
南さんの言葉は一見、身もフタもないように思えます。そして時には、凡人の私にはむずかしすぎて、ついていけなくなることもあります。
でもなぜか、お話を伺った後はいつも、視界がスッとひらけたような感覚があるのです。

先が見通せない状況の中で、SNSを見ると多くの方が、それぞれに「私にできること」をやっていました。
「じゃあ、私にできることは何だろう」と考えた時、浮かんだアイデアが、「南さんに取材して、noteで発表すること」でした。
まずは私自身が、南さんにお話を伺ってみたかったからですが、きっと今、南さんの言葉にふれることで、この状況で生きていくための新たな視点を発見する方がいらっしゃるのではと思ったのです。

桜の頃に伺ったお話は、5月下旬になってようやく原稿になり、南さんにチェックして頂くことができました。
本を作った時と同じように、唐突にご連絡を差し上げて不躾なお願いをしたにもかかわらず、取材に応じて下さり、公開をお許し下さいましたこと、この場を借りてお礼申し上げます。

1時間のインタビューは、9千文字を越えてしまいました。
長いですが、どうか(4)までお読み頂けたら、嬉しいです。(4をぜひ、読んで頂けたらという祈るような気持ち)

■  今、「当事者」でない者は、もう誰もいない

― 南さんは、今回の問題をどのように捉えていらっしゃいますか?

私がまず考えたのは、東日本大震災と今回の違いは何かということでした。

東日本大震災の際は、一時的には、日本中がひっくり返るような大騒ぎになったし、原発が大爆発したら、それこそ自分も当事者になるというありありとした恐怖感がありました。

しかし実際には、「当事者」と「そうでない者」が、明確に分かれた。

直接の当事者は、東北から関東に達する太平洋沿岸の方々、そして原発事故が重なった福島の方たちでした。

私自身、当時は福井の自坊(自分の寺)にて、終始一貫、ほとんど完全な傍観者でした。
原発爆発の瞬間、「これはやばい」と思ったが、結果なんとかなった。
そのときから当事者の意識はなくなったわけです。

日本中に、私のような人間は大勢いたはずです。

実はあのとき、私は、ひょっとすると、これは日本が変わるきっかけになるんじゃないかと思ったんです。
震災を契機に、社会や個人のあり方が大きく変わるのではないかと。


― 私も、特に、原発事故は、これまでの経済優先の考え方を大きく変えると思いました。

でも、変わらなかった。

震災後、オリンピックを呼び込むと聞いた瞬間、
しかも、それを「復興五輪」と位置づけていると聞いた瞬間に、
「ああ、これはだめだ」と思いましたね。

それに対して、今回の新型コロナウイルスに関して特徴的だったのは、たちまちのうちに、世界の誰もが感染するか、感染する可能性にさらされたことです。

だったら、それはもう「当事者でない者はいない」ということです。

この事態は、ワクチンができない限り、基本的には終わりません。
集団の2人に1人以上がウイルスに罹患しなければ、いわゆる「集団免疫」は獲得できないと言われていますし。

現在、新型コロナウイルスに対して、まがりなりにも能動的と言える行動をしているのは、ワクチンを開発している研究者だけでしょう。

今、前線の医師は対症療法しかできません。
研究者でも医師でもない我々の事情は言わずもがなです。
ただウイルスから「逃げ隠れ」するしかありません。
「自粛」だの「ソーシャルディスタンス」だのは、所詮はそういう意味です。

すなわち、現段階で(2020年5月下旬)、人間はほぼ完全に無力です。状況に対して受け身でいるしかない。


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― 確かにそうですが、今は感染の勢いも弱まっているし、このまま当事者にならず、切り抜けられるのではという気持ちもあります。

いや、さっき言ったように、誰にでも感染の可能性があると言うなら、もう既に当事者でしょう。
いま当事者でないのは、一度罹患して強力な免疫を持った人、つまり、かつて当事者だった人だけです。

たとえワクチンができたとしても、アフリカや南米などで感染爆発すれば、ウイルスが突然変異を起こす可能性もあると聞きます。
ならば、現在の免疫獲得者にしても、再感染があり得るでしょう。すると、彼らもなお当事者であり続けることになります。

当事者であるとは、言い換えれば、死ぬ可能性があるということです。
それぞれの人が、それをどのくらい自覚するかは別として。

その状況の中で、無力な人間が、自分の死というものに直面できるかどうか。
自分が死ぬ可能性について、どのくらい切実に考えられるか。

それは、ある種の「無力者の能力」だと言えるでしょう。


― 「無力者の能力」とは、どういう意味ですか?

このウイルスに対して、どんな心がまえで生きるか以前に、今、人類レベルで誰の目の前にも死があり、それに対して誰もが無力である。

それを発見できるかは、ひとつの能力だということです。


■ 自分の「死」に対して鋭敏になれるかどうかが、問われている


― でも、死亡率はそんなに高くないですよね。今回、自分自身の死を切実に意識している人は、多くはないと思います。

だから私は、能力だと言うんですよ。

確かに、致死率は低い。
今はまだ、大災害のように、命の危機が迫っているわけでもない。
閉塞感はあるし、死ぬということに対する薄ぼんやりとした不安は広がっているが、現実として捉えられているわけではない。

しかし、これだけ大規模に、誰にも感染の可能性がある病の本質は、現状ではワクチンも特効薬もない以上、我々は「死ぬかも知れない」ということ。

「ウイルスの脅威」と言うからには、その脅威の核心は、死ぬ可能性が誰にでもあるということです。

もちろん、大戦争が始まったわけではないし、直接的に死の脅威や恐怖を感じる人は、いま少数でしょう。

ですが、それでもなお、この疫病禍に死を発見できなければ、今回も大したことにはならないでしょう。


ー いえ、大したことが起きていると思うのですが…。

大したことはないと思いますね。
大震災も「大したこと」でしたが、被災した当事者はともかく、その他大勢には、結局大したことなかったでしょう?

何しろ、後に出てきたのが、言うに事欠いて「復興五輪」ですからね。
こんなセリフを臆面もなく言えることこそ、「大したこと」にならなかったよい証拠でしょう。

私は、人間にとって、所詮は生きるか死ぬかだけが最大の問題だと言ってきました。

乱暴な言い方かもしれませんが、本質的には、
自分が感染するかどうかなんて、どうでもいい話なんです。
感染して死なないなら、要は治癒して、その後も生きていくだけです。

大事なのは、その病気によって、自分の「生き死に」に直面するかどうかで、今回は、あらゆる人に同時に、その可能性があり得る。
さらに言うなら、経済収縮による困窮で、生活苦から自死する人が増加する危険もある。

今この時点で、自分の死というものに対して鋭敏になれるか、
死を、自らの目の前に置くことができるかどうか。

その視点がないと、多分「次の何か」を発見することはできないと思います。

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(2につづく)


本の紹介動画です。もし、よろしければ。