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「コロナと共にある今、どう生きればいいですか?」 恐山の禅僧 南直哉さんに伺いました(2/4)


■「不安の正体」がわからないから、人はなお、不安になる


― しかし私も含めて、多くの人にとって今の問題は、「死」そのものよりも、この時代をどう生き延びていくかです。今後来るかもしれない恐慌や災害などのことを考えると、やはり不安はあります。だから、南さんに話を聞いてみたいと思ったんです。

なぜ不安になるのかと言えば、「不安の正体」がわからないからです。

これからの暮らしがどうなるか。それは、大事です。
将来に対して、さまざまな心配は当然あるでしょう。

しかしそれは、事の本質的な問題は死だということを、見ないようにしているとも言えます。

本質を見ないようにしているから、不安の正体がわからず、切ない。よけいに不安になるわけです

誰かも言っていましたが、不安というものは、
正体のわからない恐怖のことです。

自分が何に対して怖がっているのかが本質的にわからなければ、対処のしようがない。

正体を突き止めたからといって、不安は消えないが、不安に対するアプローチの仕方はわかると思います。
そうであれば、その正体を見るべきでしょう。

正体がわかれば、怖さも程度が知れる。
怖れているものに対するアプローチの仕方がわかってくるんです。

繰り返しますが、いま本当に問われているのは、
自分が、すでに死の当事者である自覚があるのかどうか。
それを発見できるのか。
そして、仮に発見したとして、それを考える気があるのかどうかだろうと思います。

― 実際にそれができるかと言うと、なかなか、むずかしい…。

もちろん、必要がなければ、そんなことは考えなくていいんですよ。

この厄災が、これ以上の大事に至らず収束するのであれば、
(死について考えるのは)趣味みたいなものですから、考えたい人が考えればいい話です。

私は、3歳から、喘息の発作で絶命寸前の苦しみを繰り返していたから、死に直面せざるを得なかった。
だから、このように考えますが、誰にでも勧めるわけではありません。

しかし究極的には、そういう話だということです。

ただ、自分が死の当事者であると覚悟を決めると、
おそらく、不安のある部分には、あまり動揺しなくなる
と思います。


■重心を低くして沈んでみると、見えてくるものがある


― 死を前提にといっても、具体的にどうすればいいのか、イメージがつかめません。

一回、沈む…。沈むんですよ。
重心を低くしたほうがいいと思います。

いま何事かを見たいのであれば、あるいは、何かを変えたいのであれば、
重心を低くしてものを考えたほうがいい。

― 重心を低くするとは、どういうことですか?

まさに、「自分が死ぬかも知れないな」という前提で、
ものを考え始めることです。

死というものは、生にかかる重力だと思えばいいんですよ。
その重力に引かれて、沈むだけ沈めばいいと思います。

重心を低くして、考え、深く感じた上で、次に何が起きるのか。その人によって見えてくるものは違うはずだから、そこからは、個別の問題です。
ともかく、急いで先のことを考え過ぎないことです。


― 先行きわからないし、気持ち的に沈んでいる人は多いと思うのですが。

それは、気分の問題でしょう。
そういった気分は、むしろ死を覆い隠す。
死は、気分ではありません。


― たしかにそうですね。その一方で、前を向いていこう、新しい社会にするためのきっかけにしていこうという気運もあります。私もそうしていきたいと思っています。

それを、いったん棚上げするんです。
急いで前を向いても、大したものは見えませんよ。
もっと言えば、さっき話したように、一回、重心を低くして沈まないと。

沈めるだけ沈んでみれば、おそらく底を打って、しかるべきところに浮かんでこられる。
しかし、沈むことを知らないと、ただ流されて終わってしまうでしょう。

こういうことがあると、早く日常を取り戻そう、経済を立て直そう、コロナ後の世界を考えよう。つまり、「こんな時だからこそ、明るくいこうぜ」みたいな話になりがちです。

人情としてはわかる。が、これに焦ると、思考も実践も浅はかなことになるに違いありません。

明るくいこうと言っても、明るくなんかなれない人もいれば、
なぜ明るくなくちゃいけないのかと感じる人もいる。

もちろん、元気が出せる人は、それで結構。
ずっと元気で生きていけばいい。
しかし、空元気も出ない人はどうするのか。

しかも、もし自分が出しているのが、実は空元気だったとわかってしまったら、「空」であっても、元気なんてもう出せません。
 

― でも、不安の正体を見るって……

嫌でしょ?


― はい(笑)

しかし、無力になるのであれば、そこまで無力にならなきゃ。

自分が無力であると自覚するとは、
要するに、空元気を一切出さないということです。
一度諦(あきら)めるから、明らかに見えるのです。
「諦める」という言葉の意味は、本来「明らかに見る」だと言うでしょう。

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■生を前提に考えるか、死を前提にするか

― でも、空元気でも出さないとやっていられないよというような、それこそ、気分があります。

空元気でずっといける人は、それでいいんです。
今までも、そうでしたから。

アベノミクスだって、空元気ですよ。
すべての問題を置き去りにして、株価を上げることで
経済を回してなんとかやっていこうなんて、空元気そのものです。

オリンピックも空元気で始めるから、うまくいくわけがない。
来年に延期なんて言ってますが、
この状況でやれると本気で思っているのか、不思議です。

なぜ、オリンピックを中止にしないのか。
みんな、元気で生き延びようということが前提だからですよ。

とにもかくにも生き延びるという前提は、さまざまなマイナス要素、本来考えるべき、大事な要素を落としていきます。

むずかしい言い方になりますが、生に価値と意味を与えているのは、死です。
自分にとって価値があるものが存在するのは、死があるからです。
価値とは、死が決めているんです。

―  死が、価値を決めるとは?

今、手にしているものを、何ひとつ奪われることなく、未来永劫、持ち続けられるのであれば、そこに価値は生まれません。
逆の言い方をすれば、いつか失われると知ることによって初めて、自分が持っているものの価値が出てきます。

今あるものとは、たとえば、若さや健康、自身の持ち物や財産などです。

我々が、それらのものを「価値がある」「意味がある」と感じるのは、その大切なものが、いつか失われると無意識で気づいているから。
何かを失った時、もう取り返せないと知っているからです。

失われるからこそ価値があり、その価値が、喜怒哀楽を生むのです。
そして、今、手にしている価値あるものをすべて奪うのが、死です。

自分が、そう意識していなくても、何気ない日常にパックリと口を開けている裂け目のように、折に触れて、死の不安は突然訪れます。

たとえば、若さや健康が損なわれた時、大事なものや財産が無くなった時、身近な人と別れた時……。
自分が大切だと思う何かを失うと、我々は無意識のうちに、死の存在を感じ取り、自分という存在に死が作用していることを感じます。

言い換えれば、我々が物事の価値を感じ、生きていることを実感できるのは、死があるからであり、死が「重力」として効いているからです。

もっと言えば、死という重力が常にあるからこそ、生が成立するのです。

だから、死と直面しない限り、生の本質は見えない。
そして今、はからずも、人類規模で死に直面し得る状況が起きている。

それを全部見落として、生きるという前提だけでなんとかしようと思うから、地に足が着かぬまま、話がどんどん浮いてくるのです。

(3につづく)