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アダルトチルドレンな映画 ~バッファロー'66~

まだ、アダルトチルドレンという言葉を知る前。
私が最も病んでいた学生時代、20代前半の頃に「バッファロー'66」という映画に出会いました。

当時は雑貨屋で、この映画のポストカードが売っていたり、オシャレ映画の代名詞みたいな印象を持っていたのですが…
いざ見てみたら、頭を殴られるかのような、とてつもない衝撃を受けました。

当時の私は摂食障害になったり、生きてるのが辛くてたまらない時期で、自傷行為をすると心が軽くなるというような、かなり追い詰められた状態で日々の生活を送っていました。

ヴィンセント・ギャロが演じる主人公のビリー・ブラウンは、機能不全家族で育っており、刑務所から出てきたばかりのろくでもない男なのですが
作品の後半で、彼がこう繰り返すシーンがあります。
「生きられない 生きられない 生きられない…」

この言葉とシーンが、当時の私の感情とピッタリ重なってリンクし、目の回るような感覚を覚えました。

言葉のチョイス、そのフレーズ。
訳した方も素晴らしいなと思いました。
これがもし「死にたい」なんて訳されていたら、台無しだったことでしょう。

生きられない。
当時の私は、彼と同じく、まさにこの状態にありました。
私の感情の代弁のようなシーンに、目が回るような思いでした。

普通であれば、難なく出来るはずの呼吸。
それがなぜか出来ないような息苦しさ。耐えがたい生きづらさ。
無意識でも出来るはずのことが、出来ない苦しみ。

主人公の家庭の様子が映画の中にチラホラと出てきますが、虐げられるような環境ではないものの、明らかな機能不全家族。
「なんで?」と問われても、きっと具体的に答えられないし、説明することも難しい。
でも、普通に平穏に暮らしていくことができない…
辛さや理由を人に伝えられない、あるいは自覚すらないという点がまた、アダルトチルドレンを苦しめる要因となります。

この状態が酷くなると、生きられない、となるわけです。

終盤、主人公は破滅的な行動に出ますが、ヒロインであるクリスティーナ・リッチのお陰で思いとどまり、結果、ハッピーエンドで映画は終わります。

映画のキャッチコピーの通り、まさに彼女は「天使」であり、主人公を救う女神なのでした。
実際、自分を拉致するような前科者の男性を愛する女性はまずいないでしょうし、この映画のようなハッピーエンドは、私達にはなかなか訪れません。

心が健康な人が見れば、ただの心が温まるだけの映画なのかもしれませんが、機能不全家族で育った方には、きっと刺さるものがあるはずです。

クリスティーナのような「救い」は私には訪れませんし、当時は「生きられない」という気持ちを抱えたまま、摂食障害にも苦しむのですが…
心療内科の先生や、祖父の存在で何とか心を持ち直し、ぎこちない足取りではありますが、何とか歩を進められるようにはなったのでした。

この映画のような奇跡的な救いを夢見て生きていても、そんなものには出会えずに一生を終えるかもしれません。
ずっと生きづらさに苦しむのかもしれません。
今だって苦しいし、孤独に苛まれています。
なぜ?という悲しい疑問は胸から消えません。

でも、どうしても、あきらめきれないのです。

ひとつだけ間違いなく言えることは、エントリーしなければ幸せは訪れません。
アクションしないと、何も起きません。
買わない宝くじを「なんで当たらないんだろう」と嘆いているのと同じなわけです。

アダルトチルドレンとして歳を重ねていく中で、悪くなる症状と良くなる症状、両方があることを感じています。
私たちは、子供の頃に本来家庭で学ぶべきものを学んでいません。
生きていく中で、少しずつ、その学びの欠如は補填する機会があります。
受けられなかった、失われた愛情が回復することは、なかなか無いかもしれませんが…

そうやって、何となくこの辛さとの付き合い方は学んでいけるような気がしています。

「自分にはこんな救いは訪れない」ではなく、いつかこの半分くらいでも良いから、救いがあると信じて歩いていきたい。
機会が有ったら、ぜひ見ていただきたい作品です。

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