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不妊治療中に子どもの名前を決めた話【前編】

このマガジン最初の記事では、わたしの息子が生まれるまでの話を書く。
今後、暮らしの話によく登場するであろう息子なので、先に紹介しておきたい。
わたしたち夫婦にとって待望の第一子、両家にとっての初孫でもある愛おしい息子だ。

息子の名前は「縁」とした。わたしが100%考えた漢字で、家族みんな気に入ってくれたのでそのまま名付けた。
たまに「みどりちゃん?」と呼ばれるが、漢字が似ているけど違う、「えにし」でも「ふち」でもなく、「えん」と読む。

この漢字は息子を授かるための不妊治療中に、あるきっかけがあって決まった。男の子でも女の子でも「縁」にしようと思っていた。

今回は、息子の名前が決まるまでの話、わたしの不妊治療の体験を書いてみたいと思う。
少しネガティブな内容も含むが、わたしはもう心も体も元気なので安心して読んでほしい。

(書いてみたら長くなったので【前編】【後編】と分けた。)

2年間の不妊治療経験

不妊治療検査から体外受精へ

わたしは10代の頃から卵巣に腫瘍ができてしまう病気(卵巣チョコレート嚢腫:子宮内膜症のひとつ)を繰り返していて、生理が重く、婦人科へは頻繁にお世話になる体質だった。
なので独身のうちから「将来子どもがほしいと思ったら不妊治療をするんだろう」とぼんやり思っていた。
それから、結婚後子どもがほしいと考えはじめて半年経った時点でさっさと病院に行くことにした。当時32歳。

2021年4月、夫婦で不妊症検査をするため、県内屈指の高度な生殖医療ができる総合病院の門を叩いた。

検査をするとわたしの両側の卵管が閉塞していることがわかった。これは子宮内膜症の進行によって臓器が癒着体質になることが原因だった。卵管が通っていないと精子と卵子が出会えない=自然妊娠は不可能。
そうして不妊治療の中でも最高難易の「体外受精」をすることを勧められた。

悲観はしなかった。むしろ、時間やお金をかけて遠回りせずに一番可能性の高い治療ができることは近道になるかもしれないと思った。

それからせっせと病院に通い、自己注射をしながらお腹の中で卵を育て、それを体外へ抽出する「採卵」という手術をした。
(ここまでたくさんの苦労があって、採卵後の経過が悪く3日間入院するハプニングもあったが今回は割愛。)

卵は8個取れた。
病院のベッドの上で採卵をしてくれた先生からその言葉を聞いた時、「なんだかニワトリの話みたいだな」と正直思った。

そして無事に受精→凍結できたのは、そのうちの4個だった。とりあえずゼロじゃなくてよかったと安心。ここまでお金と時間をかけ、体を痛めてまで手に入れた貴重な卵だ。これらが何人の赤ちゃんになるんだろうか。

その受精卵(胚)をお腹に戻して妊娠を促すことを「移植」という。
ということで、わたしは4回の移植チャレンジ権があるということだ。妊娠確率を上げるため、見た目が良いと判定された卵から順番に移植することになった。

体外受精(採卵準備〜移植まで)の長い道のり。実際には半年間かかった。

はじめての妊娠からの稽留流産

初めての移植で初めて妊娠した。
お腹に戻した受精卵は、子宮内膜にちゃんとくっつき、根を張り、わたしのからだは「妊娠モード」にスイッチしたと血液検査で証明された。

「なんだ、こんなにうまくいくんだ!」と天にも昇る気持ちで、早速夫婦で子どもの名前を考えた。「暖かい」という漢字もいいし、「ひなた」という響きもいいなぁ・・・なんて色んな候補を挙げた。

しかし、幸せな時間はあっけなく終わった。
エコーで見える子宮内の胎嚢は小さくぼやけていて、妊娠8週でお腹の中にとどまったまま赤ちゃんの成長が止まる「稽留流産」と宣告された。
そのままわけがわからないまま、手術の予約をさせられた。子宮内に成長の止まった胎嚢が居残り続けるのは母体にとって良くないらしく、手術で胎嚢を綺麗に取り除くことが推奨された。

思い出したくもない辛い記憶だが、悲しみにさらに追い討ちをかけたのはまさにその手術。その病院の方針で、術中はゆるい静脈麻酔を使うのみの意識のある中、痛みに耐えないといけなかった。これが地獄のように辛い時間だった。旦那は会社を休み、術後も痛くて悶えるわたしの背中をいつまでもさすってくれた。

妊娠初期の流産は15%ほどの確率で誰にでも起きるという。
そして「その原因のほとんどは受精卵自体の染色体異常」と、術後に先生から言われた。だから初期流産しても母親がなにか責任を感じることはない、ということだ。運が悪かったと思って次の移植をすることを勧められた。

初期流産は、案外多くの人が経験していることだ。わたしの母もそうだったらしい。みんなあえて話題にしないだけで、実は経験していることなのかもしれない。誰のせいでもない、たまたまだったんだ。

体の回復を待って2回目の移植をした。そしてなんとまた妊娠判定が出た。

2回目の流産、不育症、染色体の異常

わたしの人生で間違いなく一番ドン底だったのは、2度目の妊娠も8週で稽留流産になったことだ。
二度と経験したくないと思ったことが半年間のうちに2回も起きてしまった。こんなことがあるんだろうか。
ストレスで目と耳が同時に炎症を起こした。目の前が黒く塗りつぶされる幻覚を見た。白髪が一気に増えた。そしてやっぱり流産の手術は痛くて悲しいものだった。

15%の確率で起きる初期流産が2度続いたことで、わたしは「不育症(妊娠してもなんらかの理由で継続しないこと、流産、死産を2回以上繰り返す状態)」と分類された。
今回の流産は原因を特定したほうがいいと勧められ、手術で取り出した胎嚢を検査にかけた。そして、卵に「染色体の異常」があったことがわかった。

染色体というのは、生物の授業で聞いたことがある。ヒトの構造や性別、遺伝の情報を含む物質のことで2本づつの対で23種類、全部で46本ある。この染色体のどこかがエラーを起こし、数や構造に問題があることを「染色体異常」という。異常になる原因は、偶発的であったり、夫婦の遺伝的な理由などがある。

2回目の流産になった卵は2箇所の異常が認められた。(下記は検査結果の実際の画像、5番とXが3本(トリソミー)になっている。)

2回目の流産の原因は染色体異常。5番とXにトリソミー(3本)の数的異常があった。

ただ、染色体異常があれば必ず流産するというわけではない。21番トリソミー(ダウン症)が代表的で、そのまま生まれることがあるし、平均寿命は60歳を超える。
しかし先生いわく、5番に異常を持ったまま生まれてくることはまずないとのこと。遺伝的な理由で異常が起きたとは考えにくいので、夫婦で遺伝検査をすることにはならなかった。

不妊治療をしていただけなのに、思いがけず生物学の知識を得ることになり、生殖医療について色々知ることはとても興味深かった。
検査結果でもらった染色体配列の紙を眺めては、「人が健康に生まれてくるまでに本当にたくさんのハードルがある」と実感せずにはいられなかった。
そして、わたしが子どもを授かるまでに超えるべきハードルは、「妊娠するまで」ではなくて、「妊娠継続すること」とはじめてわかった。

当たり前だけど、不妊治療は「妊娠すること」がゴールではない。健康な赤ちゃんを母子健康な状態で出産すること、それまで不妊治療は続くのだ。その当たり前を、実は不妊治療や妊活をしている当事者もわかっていないことが多い。
わたしもそのうちのひとりだった。実際に流産を経験するまでわからないなんて、これまでどれだけ能天気に生きていたんだろう、と情けなくなった。

もはや私の場合「妊娠したか・していないか」を心配する状況ではない。妊娠判定後、自分の体が変わっていくのを実感しながら「お腹の中の赤ちゃんはまだ生きているだろうか、無事に生まれてくることができるのか」と不安に過ごす10ヶ月をわたしは耐えられるだろうか。

不妊治療の休止

15%の確率で起きる不幸が2回続いたことは本当に「運がなかった」ということなのか。
わたしが発信しているYouTubeには、流産4回、5回と続いて精神を壊してしまった人からコメントも寄せられた。不妊治療経験者の中には人知れず地獄のような苦しみを感じながらそれでも頑張っている人がいると、発信を通して実感した。

うなだれる頭をどうにか持ち上げながら、なんとか会社員として仕事をしたり、気の許せる友達とわずかに付き合っていた。

社会の中で過ごしていると、妊娠出産まわりについての考え方、配慮の仕方は本当に人それぞれだった。
自分が流産を経験していなくても、「相手にもしかしたら辛い経験があったかもしれない」と1ミリも想像できない人は、女性であってもデリカシーが全くない。
「生理がこないから病院行ったら妊娠してた」など早すぎる妊娠報告、誰にもかれにも言いふらすような報告、派手でお祭り騒ぎな報告。
無神経な言葉、「欲しくなかったけど子どもが出来た」「子どもはまだ(作らないの)?」「早く作ったほうがいいよ」
職場での妊娠報告の拍手喝采、職場に生まれたばかりの子どもを連れて挨拶に来て長時間居座る人、出産直後ビデオ通話で職場に生中継する人もいた。

そういう何気ない誰かの言動に直面するたびに、死にたくなるほど辛くなった。
「ずるい」とか「うらやましい」という幼稚な気持ちではない。誰かの妊娠出産とわたしに起きたことは全く関係ない。そんなことはとっくに心得ている。
わたしが本当に悲しかったのは、妊娠出産という本来おめでたい報告について心から「おめでとう、お大事に。」と言ってあげられない自分自身の心の荒みようが、不憫で可哀想でたまらなかったからだ。

そうして人や社会と関わることが怖くなったので仕事は完全在宅、時短勤務に切り替えた。SNSもやめて、自宅にひきこもって過ごした。
主治医の先生から、気を取り直して3回目の移植に挑むことを勧められた。わたしには子宮内膜症があって、時間を空けるとそれが悪化していくリスクがあったからだ。
だけど次も流産になったらもう今の自分には戻ってこれない気がして、怖くなり一歩も動けなかった。

2022年5月、残り2つの胚を残して不妊治療を一時休止した。いつ再開できるかは自分でもわからず、とにかく緊張や不安から解放されて休みたかった。

「縁」という漢字に出会うのももう少し先のこと。
その頃のわたしは、もはや子どもを持ちたいのかどうかさえわからなくなっていた。


長くなったので今回はここまで。
次回の後編もぜひ読んでいただけるとうれしいです。

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